東恩納寛惇の『泰 ビルマ 印度』を読んでいて、ちょっと気になったことがある。
インド亜大陸を紀行中の東恩納の想念に、しばしば「ボース」という名が登場するのだ。
釈迦の時代から変わらず――否、下手をするとそれ以上の酷烈さで――運用されるカースト制度や、イギリスによる分割統治の辣腕ぶりなど、現実の厳しさを目の当たりにした場合に於いて、
――ボース氏のやろうとしていることは、なかなか容易な業ではない。
このようなニュアンスのもと使われている。
私ははじめ、この「ボース氏」とやらはチャンドラ・ボースのことだとばかり考えていた。
当時活躍したインドの独立運動家で「ボース」と聞けば、まず八割方の日本人は、彼の名をこそ思い浮かべるのではなかろうか。そう、メッテルニヒの妥協なき理想主義に感銘を受け、「イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を生涯に亘って貫いた、あの闘士の名前こそ。――
だが、違った。東恩納の言及している「ボース氏」は、チャンドラではなくラス・ビハリの方だったのだ。
違和感に気付いたのは、デリーの街で東恩納がバクシーという、やはり独立の熱意に燃える、インド人のインテリ青年と会談した記事に由る。別れ際、バクシー君は東恩納に次のように告げたのである。
又會ひませう、東京にかへったら、バクシーに面會したと、ボースに話して下さい悦ぶでせう、私も行き度いが手続が面倒でなかなか許可して呉れませぬ(190頁)
(おや)
意外さのあまり、眉をひらいた。
(居たのか、この時期。チャンドラ・ボースが、日本に――)
そんな話は聞いたことがない。
興味に駆られスマホを手にとり、検索エンジンの世話になり、そこで漸くラス・ビハリ・ボースというインドの志士が、日本に亡命していたことを知ったのだ。
(Wikipediaより、ラス・ビハリ・ボース)
1886年、カルカッタの郊外チャンダンナガルで生を享けたラス・ビハリは、22歳にして母国救匡の大志を抱き、革命運動に参加。以後、総督暗殺未遂事件を起こしたり大規模蜂起の計画を練るうち、札付きの過激派として当局に目を付けられるようになり、1914年には彼の身柄に12000ルピーもの懸賞金がかけられるという破目に陥る。
虎口と化したインドから、しかし翌1915年、彼はするりと脱け出した。
活路を求めて向かった先は、日本である。
日本に於けるラス・ビハリの活動は華やかだった。支援者にも恵まれて、頭山満や内田良平といった右翼の巨頭も、英政府の追求から彼を隠すのにただならぬ貢献を果たしている。犬養毅もアジア主義者の側面から、殊更目をかけていたようだ。
(Wikipediaより、ボースを囲む日本の支援者)
そうした人間関係の網目の中に、東恩納寛惇の名も組み込まれていたのだろう。彼はまた『泰 ビルマ 印度』の中でラス・ビハリが詠んだという『母国印度』を紹介し、その愛国心を
おゝ 君はなべての人類を魅する!
おゝ 君が國土は常に汚れなき
晴朗なる太陽の光緑もて輝く
世の父と母とを生みたる者よ!
紺碧の波もて君が足は常に洗はれ
君が緑の襟巻は常に微風にゆらぎ
高き空に口づけする君がヒマラヤの眉
君が頭は白き雪の冠を頂く
黎明は蒼天に現はれ
サマの聖歌は君が聖なる林にぞ起り初めぬ
いやさきに 君が森の住居に
知慮と徳と詩の姿は顕はれたり
とはに恵深くあれ 君に栄光あれ
ヂャーナヴイとジュムナこそ
君が愛の流れ
いみじくも聖なる乳の贈與者
おゝ母君よ!
ジュムナとはおそらくガンジス川最大の支流、ヤムナー川を指している。ヂャーナヴイに関しては、特定することは叶わなかったが、やはり河川の名前でないか。
ラス・ビハリ・ボースは1923年、日本に帰化した。
日本人女性相馬俊子と結婚し、一男一女を設けてもいる。
当然日本語にも堪能だったに違いなく、あるいはこの『母国印度』は誰が訳したものでもない、徹頭徹尾彼の
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