五七五の定型的に考えて、公称である「ごんのひょうえ」よりも「ごんべえ」と読むのが正しかろう。
言うまでもなく、関東大震災の翌日に組閣された第二次山本内閣を題材とした川柳である。
以前にも書いた気がするが、このとき彼がぶちあげた「復興に勝る供養なし」は実に青史に刻まれるべき名スローガンだと私は思う。
焦土と化した東京を、そこに転がる死体の山を、目の当たりにしてよくぞまあ、これだけの気を吐けたものだ。
それはまったく、明治維新からこっち、日本人が懸命に積み重ねてきた総ての営為をぶち壊しにするものだった。
下町で五十年目に富士が見え
片附かぬ死体が動くゆり返し
その後の火の手は人を焼く煙
人の波みんな生きたい顔で浮き
地獄さながらの情景である。
(配給の光景)
こんな時だからと食ひ気ばかりなり
辛うじて命を拾った者も、安心にはまだ程遠い。
なにしろ地上物の一切が烏有に帰すほどの大災害だ。生活物資、中でも食糧の窮乏は自明の理。配給はとてもおっつかず、人々は空きっ腹を抱えて焼け跡を彷徨するを余儀なくされた。
一時数十万の避難民が殺到した上野では、人々は敷布や毛布をもって魚類を捕へ、中には緋鯉の頭から、生のまゝかぢりついたものさへある。(中略)同じ様なことは、日比谷公園でも演ぜられ、人々は胸までつかる池の中に、我れ先にととびこんで、鯉、鮒等は勿論のこと、金魚、アヒル、鶴を捕へ、更に縛ってあった猿まで彼らの食糧になってしまったのである。(『大正大震災大火災』197頁)
むろん、衛生的には話にならない。
淡水魚は特に寄生虫の懸念が大きいということは、とうに周知されている。
が、今日を生き延びられるかどうかも怪しいという状況で、数週間、数ヶ月後の健康被害を気にする余裕がいったい誰にあるのだろうか?
本所被服廠跡にも火の鎮まるや附近の住民が殺到し、焼け爛れた十数頭の牛の死骸から素手で肉を毟り取り、あっという間に骨と頭だけにしてしまったということだ。
(日比谷公園の避難所)
迫り来る猛火にも拘らず焼け残ったこれら三つの物件は「三不思議」とひとまとめにされ語られて、以前にも増し尊敬の眼を注がれた。
まだ運があるぜと胸を叩く人
どう生きてゐたのか蟻が生きて居る
躍進の日本地震の日本なり
修羅の巷もいずれ去る。
周期的に途轍もない惨禍を齎す日本列島。「災害大国」の異名を恣にするこの土地に、しかしあくまでしがみつき、寄り添い生きる人々がいた。
敬服すべきこの心性は、これよりおよそ四半世紀後、焼夷弾が雨あられと降りそそぎ、またもや見渡す限りの焼け野原へと逆戻りした大地の上でも遺憾なく発揮されるのである。
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