穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―後編・下―

 

 やや話は脇道に逸れるが、この杉山の観測とよく似たモノを抱いていた人物を思い出したので触れておきたい。


「日本資本主義の父」、渋沢栄一その人である。

 

 

Eiichi Shibusawa

Wikipediaより、渋沢栄一) 

 


 上記の異名をとるだけあって、渋沢は大日本帝国の資本主義的能力を極めて正確に看破していた。すなわち、軍隊が如何に精強で、陸に海にと連戦連勝を続けようとも、この国は商工業国としてまだまだ半人前に過ぎないと。


 よって、軍が如何に力戦し、大陸からロシアの影響を拭い去ることが出来たとしても、結局のところ日本はそこから大した利益を引き出せず、まごまごする間に資本主義国としては遥かに古株な他の列強が割り込んできて、彼らが思う存分甘い汁を吸い上げるのを、指を咥えて後ろから眺める以外になくなるのでは? ――と。


 近視眼的にロシアに勝つことのみを考えず、勝った後のことまで考慮した点、渋沢と杉山は共通している。


 ゆえに渋沢は、奉天会戦の砲煙もまだ新しい明治三十八年三月二十八日銀行倶楽部晩餐会の席上に於いて、次のように演説し、同業者に喝を入れている。

 


 此の戦争は遂に平和は克復する、平和が克復した後が我々商工業者の真正の責務である。それこそ日本の奮励担任すべきものである。其の担任すべきものに於て、若し前に申す如く我々の力が充分でないと考へますると、我々は是より大いに努力せねばならぬと云ふことを自ら思ふのでござりまする。(『渋沢男爵 実業公演 坤』3頁)

 


 資本主義国としての実力を涵養し、押し寄せて来るであろう列強勢力に真っ向から立ち向かえるだけの国体を作る。


 渋沢の姿勢はどこまでも王道に沿うものだ。


 端から「戦後」を見据えて立ち回ったのは杉山も同じ。だが経済人でない杉山は、その代わり政治的に列強――特に英国――が易々と手をつけられない構造を仕上げる方に苦心した。

 


 その為にも、日英同盟は絶対に英国を下手に廻して結ばねばならない。

 


 生半なまなかなやりくちではとてもかなわぬこの注文を仕遂げるべく、持ち前の脳力と悪知恵の限りを結集し、とうとうこれしかないと桂・児玉に献策したのが、この稿の表題にもした、


伊藤博文公をして、日露戦争の戦死者第一号になっていただく」


 という代物だった。

 


「かねてご存知の通り、伊藤公は親露主義です。ロシアと戦うなどは以ての外だ、ロシアとは手を握って、共に東洋の平和を維持して行く方針を取らなければならぬ、それには先づ日露同盟を結ぶ必要がある、といふのが伊藤公の外交持論です」
「それは私達もかねがね聞かされて居る所だ、それで、伊藤公に何をして貰はうといふのか」
「死を決して露都へ乗込んで戴くのです。俗に腹を押せば屁が出ると申します。親露主義の伊藤公、日本に於て、上御一人からも、下国民からも絶大の信頼を受けてゐる国家的有用の一大人物伊藤公、これが露都訪問と出かけたら、世界の眼はこれを何と見るで御座いませうか。此処です、私は露西亜を以て腹とし、日英攻守同盟を以て屁とします。比喩は甚だ不吉らしいが、前申上げた、腹を押せば屁が出るの俗諺に当てはめて申上げるのです。その腹であるところのロシアを、伊藤公といふ日本の大人物に押して戴いて、日英攻守同盟といふ屁を押し出さうといふ案であります。伊藤公に於かれては、固より親露主義で居られるのだから、露都訪問をなさるでありませうが、併し、日露現下の関係でありますから、どんな危険が突発するかも知れません。決死的覚悟でない限り露都訪問は出来ないのですが、伊藤公にそれだけの大決心を促して戴くだけの覚悟が、先づ閣下達に御座いますか。(後略)

 


 このような遣り取りが内々であったと、『熱血秘史 戦記名著集9巻』、514頁にて杉山は語る。


 このとき杉山が提案した構図は、西郷隆盛を韓都に送り、その地で韓人に殺されることによって国内世論を沸騰させ、帥を起こす口実とし、一挙に鶏林八道を攻め上るという、明治初頭に持ち上がったあの計画――征韓論を、どこか彷彿とさせるものである。

 

 

SaigoTakamori1332

Wikipediaより、西郷隆盛像) 

 


 当時さんざん暗躍し、結果的には征韓論を叩き潰した主犯格たる博文が、三十年後の今日になって逆に西郷の位置に着かされるとはなんたる皮肉か。

 


「先づ、話は大抵分かった、だから、陽に伊藤公の親露主義を謳歌して、露都行きを勧めよと、斯う云ふのだらう」
「先づ、さうです。併し陽に謳歌と申しても、伊藤公を欺くといふ心ではありません。公の露都訪問を英国が雲煙過眼視して――そんなことは断じてないことを保証しますけれど――幸ひにして公の訪問に依って、日露同盟が実現すれば、これに越したことはないのですから、言はば両道をかけた策です(後略)(同上、515頁)

 


 桂太郎内閣に於いて、日露協商と日英同盟の交渉が並行的に行われるという変態的な外交姿勢はこうして生まれた。


 もっとも杉山茂丸は、ロシアが日本と同盟して従来の飽くなき南下衝動を棄てるなどということは、「シベリアが急に熱帯国となることがあっても、断じてない(同上)と冷厳に見切ってもいたのだが。

 


 果たしてイギリスは反応した。それはもう過敏なまでに反応した。

 


 彼らは彼らで、清国・ペルシャに於ける権益問題交渉で既にロシアと決裂している。


 ――ペルシャが侵されれば、次はインドが危うくなる。


 英国人がこう考えるのは、満洲を侵されれば次は朝鮮だとする日本人の思考法に酷似している。疑いを差し挟む余地のない、自明の理といっていい。


 当然、見過ごしていい事態でなかった。


 日本を使嗾してロシアに当らせるべきであろう。
 その為に餌を与える必要があるにしても、あまり過剰なのは好ましくない。特に同盟ともなると、従来の伝統的な外交姿勢――栄光ある孤立をかなぐり棄てる行為に他ならず、内外に及ぼす影響を考えると、それはそれで無視できないものがある。


 やるにしても、日本から泣きついて懇願してきたところを、いたたまれず救ってやったという格好を整えたかった。


 ところが、伊藤博文である。

 

 

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 元勲どもの長老株で、根っからの親露主義者のこの男が、あろうことかこの時期に、日本を離れて露都を訪問するという。
 この報せに、果たして英国外務省は震撼した。そのことは明治三十四年十一月二十日、英国駐箚特命全権公使林董に、外務大臣ランズダウンが示した態度をとってみてもわかる。


 林の報告によるとランズダウンはのっけから、「伊藤侯露国行の意志に猜疑を抱ける模様」を示して臨み、もし彼が訪問先で何らかの条約を結ぶ気であれば、それはイギリス政府として「非常に憤怒」すべきことであると威圧を加えた。

 

 

Marquess of Lansdowne

Wikipediaより、ランズダウン) 

 


 驚愕した林公使は大急ぎでパリ滞在中の伊藤に向かい、「露国に入るのは英国政府が疑惑をはさむ」との電報を送り、その足どりを停止させようとしたものの、努力もむなしく十一月二十五日、伊藤はあっさりペテルブルグに入ってしまう。


 林としては、生きた心地がしなかったろう。


 しかしながら伊藤のこの強硬姿勢は、同時にランズダウンに対しても並々ならぬ影響を与えた。ああまでしても伊藤が進路を曲げなかった以上、これはもう容易なことでは日本を振り向かせることは不可能であると踏んだのである。


 ここに至り、ついに英国は腹を括った。悪辣な高利貸しさながらに、契約書に罠を仕掛けることもせず、日本に対して対等な軍事同盟を提案したのだ。


 もっともランズダウン卿は、後にささやかな抵抗をした。それは彼が日英同盟締結の報告を議会にした際、


 ――われらは同盟を日本に許せり。


 と発言したことである。


 日本と結んだ・・・、ではなく日本に許せり・・・。あくまで上から目線を崩していない。
 このプライドの高さは流石としか言い様がなく、もはやいっそ小気味よくさえ感ずるほどだ。


 しかしながら誇り高きかの英国が、その伝統たる「栄光ある孤立」を棄ててまで同盟を、しかも有色人種を相手に結んだという事実が齎す衝撃は、到底この程度の小手先の業で誤魔化しきれるものではなかった。

 

 


 杉山茂丸、一世一代の大陰謀はついに成った。


 同時に杉山の胸に去来したのは、


 ――たとえ無事に帰って来れても、伊藤公はもう政治的には死骸と化したも同然だろう。


 という、切なさのにじんだ罪悪感に他ならなかった。


 杉山の聞き及んだところに依れば、日英同盟の成立を、伊藤は露都ペテルブルグで、しかも交渉相手の露国蔵相ヴィッテの口から知らされた

 

 

Sergei Yulyevich Witte 1905

 (Wikipediaより、セルゲイ・ヴィッテ)

 


 前述の通り十一月二十五日に露都へ入った博文は、その三日後、二十八日にニコライ二世に拝謁し、蔵相ヴィッテ、外相ラムズドルフらと、幾日にも亘って会談している。


 その感触からロシアが存外、日本と手を組むことに好意的であると看取して、伊藤は前途に大いなる希望を見出していた。と同時に、せっかく上手く運んでいる現状に水を差されてはかなわぬと、本国に対して「英国の誘いにうか・・ととびつき、攻守同盟の如き重大問題を軽々に決定せぬように」と訓戒する旨、電報に打たせて送りつけさえしているのだ。


「自分たち外遊組が帰るまで、留守内閣は国家の大事を決してはならない」


 と約束させて大久保利通を筆頭に、数多の政府要人が出かけていった、征韓論騒ぎのときの情景といよいよかぶる。
 明治初頭に於いては西郷が、


 ――我々を子供扱いするか。


 と激怒し、征韓論という「国家の大事」を勝手に決しようとした。


 今回もまた、同じことが起きたと言える。伊藤がくだんの電報を打たせたのが十二月六日、しかしながらその翌日の十二月七日に開かれた元老会議で、全会一致のもと本国政府は日英同盟に同意してしまったのである。


 一連の経緯を、あろうことか交渉相手の露国側から知らされて、伊藤はついに全貌が見えた。


 ――このためか。


 すべては日英同盟締結のため。体よくダシに使われた己の姿を、否が応でも自覚せざるを得なかった。
 生涯に亘ってこれほどの煮え湯を呑まされたことはかつてなく、杉山が


 ――もはや死骸同然。


 とみたのもまったく無理からぬことであったろう。並大抵の政治家ならば気落ちして、底の底まで突っ伏している。


 ところが伊藤博文が、政治家としての底知れなさを発揮するのはここからだった。彼はまったく政治的には、不死の生命力を持っていた。


 もはや交渉もへったくれもなくなったロシアを去った博文は、その後ベルリンを経てロンドンに向かう。そして彼の地で歓待に出てきた外相に対し、滴るような微笑を浮かべ、日英同盟締結を祝し、


 ――両国の未来にとって、これほどめでたいことはない。


 と、どう見ても心の底からの賛辞を送ってのけたのである。


「英国が古来の外交方針を一変して、我と結ばんとする意志が了解し難い。何か別に大きな困難事でもあって、そこから逃れるべく我を利用せんと企んでいるのではあるまいか」


 と、誰よりも強く日英同盟に疑義を呈し、筋金入りの親露主義者と思われていたこの男が、だ。


 あざやかにもほどがあるこの変貌ぶりを耳にして、杉山は今度こそ伊藤博文人間力を思い知り、その強靭さに胴震いするほどの感動を覚えた。


 事実、伊藤はこれで政治的に死ぬどころか、自分を嵌めた桂への復讐を胸に秘め、帰国後はときに元老としての威を用い、またときに政友会総裁としての顔で以って、あらゆる方面から内閣へ圧力をかけることに尽力し、桂をして辞職一歩手前までその神経を疲弊させるに至るのである。

 


 元老の大威力を以て桂に臨んで行くかと思ふと、忽ちにして政友会総裁として打つかって行くといふ有様で、桂としては、元老としてその教へに聴従すべきか、政党総裁いや反対党総裁としてこれを敵とすべきか、全く迷はざるを得なかった。(同上、501頁)

 

 


 日本をして五大強国の一角へと押し上げた大戦争。そこへ到る道程もまた、尋常一様なものでない、激烈極まる政争の数々に満ちていた。


 そしてこの「戦場」にも、確かに勇士は存在したのだ。そのことについて、私は疑いを抱かない。

 

 

 

 

 


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