指先の精妙なるはたらきに命を懸ける
明治・大正期の話である。
暑中休暇を利用して帰省せんと目論む者や、涼を求めて田舎へ避暑に出掛ける輩。そうした手合いで汽車は軒並み混雑し、乗客同士の接触が不自然ではなくなれば、彼らの仕事もやり易くなる。衣類が薄くて懐具合がよく分かるのもポイントだ。中には一度掏摸行為をはたらいた後、中身だけをごっそりいただき、軽くなったその財布を元の通り戻し置く、妙ちくりんな「熟練者」まで居たという。
夏目漱石に薫陶を受けること甚大だった物理学者にして随筆家、吉村冬彦こと寺田寅彦が懐のものを盗まれたのも、やはり夏の盛りに於いてであった。
なんでもその日、寅彦は、伊香保榛名を見る目的で自宅の門を出たという。評判を聞くことは多々あれど、自ら脚を運んだことはこれまで一度もなかったらしい。
ところが、上野駅の改札口を這入ってからチョッキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた皮財布がなくなってゐた。改札口の混雑に紛れて何処かの「街の紳士」の手すさみに抜取られたものらしい。もう二度と出直す勇気がなくなってそれっきりそのままになってしまった。(昭和九年『触媒』25頁)
人を見たら泥棒と思え、なんて格言が大手を振って罷り通るわけである。
当時の東京、否、大日本帝国ではこの種の「業師」がそこいらじゅうに蠢いていた。
それだから、社会的に至極高名な人々もよく被害に遭っている。
たとえば徳富蘇峰がいい例だ。「日本言論界の父」と呼ばれたこの人は、明治三十六年十月二十五日甲武線に息子と共に乗車中、名もしれぬ一介の掏摸により、鉄側十六形龍頭巻懐中時計を盗まれている。
(これはしたり、いつの間に――)
暫くしてからそれと気が付き、慌てて警察に届ける蘇峰。なにぶん名だたる大文豪の被害とあって、捜査にもかなり力が入った。
すると翌月二十六日、事態は意外な転換を示す。秋山元蔵なる送り主から、警視庁へ小包郵便が届いたのだ。
(はてな)
首を傾げつつ開封すると、中には一個の懐中時計が。
その特徴は、いちいち蘇峰の被害届と合致する。まさかと思って本人に見せると、豈図らんや、まさに盗まれた時計そのものだった。
――流石日本警察は機敏である。
と、蘇峰本人はほくほく顔で褒めたものだが、裏をのぞけばなんてことない。この当時、掏摸や博徒に繋がることが情報収集の手段として刑事の間に広く行われたものであり、その筋から密かに耳打ちした者があったのだ。意外な大物に手を出しちまったな、大騒ぎに発展しても厄介だ、物を返してさっさと鎮火を図ってしまえ――と。
場合によっては態々金一封を同梱して送る例まであったというから、ことなかれ主義の氾濫は裏社会に於いても変わらぬらしい。よほど、日本人の精神に深く食い入っているのだろう。
ついでながら、伊藤博文が中年の折。
銀座の街を歩いていると、人波に紛れて彼のポッケに手を突っ込んだ掏摸がいた。
不幸としかいいようがない。相手は正真正銘の維新志士、幕末の闇に跳梁し、剣電弾雨を潜り抜け、時にはみずから暗殺の白刃をふるいさえした修羅である。
研ぎ澄まされた神経は、些かも鈍っていなかった。
「――」
まるで活劇の一幕のような、驚くべき早さであった。
武士たる者が喧嘩に弱くては話にならない。恩師来原良蔵も、草葉の陰で「さてこそは」と頷いたろう。伊藤博文、確かに当代の傑物だった。
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