鮎川義介はドイツに着くやいなやの素早さで、駐ドイツ特命全権大使・来栖三郎にヒトラーとの会見を願い出ていた。
ところが来栖の返事は芳しくなく、「成否は請け合えないが、なんとか手を尽くしてみよう」と言われたっきり待てども待てども音沙汰がない。
(無理があったか)
繰り言になるが、このとき既に第二次世界大戦がはじまっている。
ヒトラーの近辺がのびやかであった筈もなく、スケジュール表は数週間先までギチギチに詰まっていたとしても何ら不思議ではないだろう。そうした事情を想像する脳力を持っていたから、鮎川はべつに腹も立てない。
(まあ、仕方ない)
潔く見切りをつけて、ぶらりとスイスに旅行した。
この永世中立国を足掛かりにイタリアへと南下して、更にここから隙を窺い、こっそりアメリカに渡航する計画を練っていたときのことである。長らく連絡のなかった来栖から、だしぬけに「ヒトラーと逢えるぞ」との報せが舞い込んだのは――。
こうなればアメリカ云々どころではない。風をくらってドイツに戻った。
そして、1940年3月5日。折しも猛烈な吹雪に見舞われたベルリンで、鮎川はヒトラーと小一時間の会談を行う。
場所は、総統官邸である。
鮎川の言をそのまま借りれば、この官邸は「ドイツの他の建物がゴテゴテしているのと違って、日本式の簡素美を打ち出したスカっとしたものであった(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』172頁)」。
鮎川はこの建物が、独裁確立後のヒトラーにより大幅に手を加えられ、以前とはまるで別種の趣に改造されたと知っている。
そのため本人に逢う以前、未だ廊下を歩いている時分から、
(ヒトラーとはただのドイツ
と、ひどく良好な第一印象を抱いたという。これはむしろ、東洋的な感性に基き創られたものではあるまいか――。
(Wikipediaより、総統官邸)
鮎川義介の精神は、「簡明素朴」を愛するように出来ている。
絵は、最低限の線で描くがよし。着色も無用、ごてごて顔料を塗りたくられた油絵よりも、墨絵の方が品がよく、見ていて胸が清くなる。
この感性は食道楽にも反映されて、やたらと手を加えて出来上がる、こってりした支那料理や西洋料理に生涯好感を抱いていない。ただ、洋食では、牛肉をそのまま野焼きにしたステーキだけは称讃した。
自然の持ち味をなるたけ崩さぬようにしなくば下品に堕すると言い放ち、酒粕をあぶったものを好物とした鮎川義介。そんな彼の感性は、ヒトラーのセンスにどこか共鳴するものを覚えた。
白く染まる窓外を横目に、鮎川の鼓動は次第次第に高まっていった。
その部屋に居合わせた人物は五名。
ヒトラー、鮎川は当然として、侍従が一人にベルリン大学日本語教授シャール・シュミットの顔もある。一橋商大でドイツ語を教えた経歴を持つシュミット教授は、通訳として場に臨んでいた。
誰か他にもう一人、何者かが居合わせた筈だがこの「誰か」に関して鮎川の記憶は曖昧である。
あるいはヒトラーの印象の強烈さに、覆い隠されてしまったのかもしれない。鮎川はまず、方々に於ける工場見学につき各界からたいへんなもてなしを受け、その間少しも不快な思いをしなかったことへの謝辞を述べた。
事前に立てた予想では、これに関連してヒトラーも大豆の話を持ち出すものとし、密かに身構えていたのである。
ところがヒトラーは鷹揚にこれを受けるのみで、大豆の「だ」の字も口に出さない。
(どういうわけだろう)
ここで一つ鮎川は、威力偵察を試みた。敢えて自分から大豆の件を切り出して、
「自分は満洲の農業部門には直接関係ないけれども、大豆を少々お土産として用意している。ところが望み手が多過ぎてどう配分したらよいか迷っている、総統の意見を伺いたい」
この質問でヒトラーを揺らし、本音を引き出そうとしたのである。
しかしながらヒトラーは、ここでも鮎川の予測を超えてきた。
「そんなことは問題じゃない」
と、取り合う気配を見せないのである。
やがて話が国の経済に及ぶに至って、初めて彼は語調を高めた。
「国民の経済がよくなければよい政治は行えない、即ち経済が政治をリードするという一般の通説には自分は承服できない、否その逆が真理だと信じている。即ち、政治が国民の経済を左右する、平たく言えば正しい政治を布けば経済は自らよくなるものだ(『百味箪笥 鮎川義介随筆集』173頁)」
この持論を聴くに及んで鮎川は、
(これはいよいよ東洋的だ)
官邸の造作から受けた印象を一段と濃くした。アドルフ・ヒトラーとは何者か、鮎川が真に理解したのはこのときだという。
次いでヒトラーは、鮎川が永遠に記憶する発言をした。
「自分は同志と旗挙げしてから僅々二十年だが、今ドイツ国内の政治(経済を含めた)に関する限り何でも日本に引けをとらないが、唯ひとつ絶対に敵わないものがある。それは日本の皇室だ。これはドイツだけでない、世界のどの国もが絶対に真似ができない。どんなに傑出したルーラーが出ても、一代や二代であれは作れるものじゃない。五百年や千年の伝統を必要とする、言わば日本の皇室は日本だけがもつ至宝である。誠にもって羨しい」と繰り返し繰り返しいうんだ。(174頁)
偶然か計算か、いずれにせよヒトラーは日本人の勘所を完璧に衝いた。
鮎川が一大感動を発したのは言うまでもない。政治の第一は道路だという原理についても、彼の口から直接学んだ。
戦後、鮎川は道路計画調査会を立ち上げて、幹線道路網設備案・全国道路整備計画等々と画期的な仕事を次々こなし、日本道路建設の基礎を築き上げるに至るのだが、その「根」はまさにこの瞬間、ヒトラーから受けた啓発にある。
ヒトラーのセンスは鮎川義介を憑代に、日本の道路上に受け継がれたというわけだ。
後世ヒットラーに対してはもとより色々の批判はあるが、彼の政治哲学に関しては今以て私の推服するところである。(175頁)
斯くの如き一文で、鮎川は「ヒットラー総統」と題された、一連の小稿を閉じている。
さりげなく書かれているが、これはとんでもないことだ。
現代社会に於いてすら、「アドルフ・ヒトラーは偉大だった」などと公言すれば、社会的制裁は免れまい。ましてやこれが記されたのは、昭和三十八年三月のこと。敗戦から20年も経ておらず、この時期のヒトラーの扱いときたらもはや人間のそれですらない。
彼をして人格を備えた一個の人間と認めるだけの心の余裕が、まだ人々に無かった時代だ。
狂人、悪魔、血を好む鬼、人の皮を被った獣――そのあたりがまあ妥当なところで、ややもすればこのとき植えつけられたイメージを、未だに信じている者がいる。
そのような環境下にあって、あからさまなヒトラー擁護を展開する。
凄まじい胆力としかいいようがない。
ましてや鮎川義介と言えば、戦犯容疑を受けて巣鴨収容所に拘置――当人はこれを「拉致」と呼んだが――された男だ。
そのような目に遭わされてなお、己の心を枉げようとしない。「壮」と感じたモノを誰憚りなく「壮」と言う。なんと清々しき漢であろうか。
(家族写真。この二日後に巣鴨に「拉致」)
鮎川義介は昭和四十二年二月十三日、胆嚢炎の手術から合併症を惹き起こし、急性肺炎で死亡した。
享年、86歳。
大往生といっていい。
しかしながら彼だけは、あと三十年も生かしておいて、思う存分仕事をさせてみたかったものだ。
鮎川自身もそのつもりで満々だった。
私はこの十一月六日で七十九回目の誕生日を迎えたが、近頃とても命が惜しくなってきた。還暦までは時間のたつのは別段気にもならなかったし、若いときは時間などはただみたいに感じていた。これは私だけに限ったことではない。なんとなく長生きしたいのは万人の通有観である。
ところが、私の長生きしたいのは「なんとなく」ではない。いわくがある。それは気力と体力の下り坂は幸いにゆるやかであり、智力の方は、まだ峠を越していないので、この調子をくずさずに、その期間に世のためになる仕事を精いっぱいやってみたい欲望に駆られているからである。(83~84頁)
事実、鮎川の頭脳は衰弱する肉体とは裏腹に、少しも鋭敏さを曇らせなかった。
それにもまして、この情熱の滾りようときたらどうであろう。なんと若々しいことか。鮎川義介という人物は、いくつになっても体の何処かに少年の心を残していたのではなかろうか――それこそ臨終の刹那まで。
つくづく以って、その早世が惜しまれる。
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