「甲州」という名のブドウがある。
だいたいシーズン終盤ごろに成熟し、収穫されるこの品種。特徴としては果皮の厚さと、種の周りに酸味だまりがあることか。国内生産量の90パーセント以上を山梨一県が占めていることも加え入れてもいいかもしれない。
生食よりもワイン醸造が主な用途で、斯く言う私自身も口にした覚えがあまりない。我が生家でも大抵食卓に上がるのは、巨峰かピオーネあたりであった。
ところがこの「甲州」こそが生食第一の品種と看做され、西洋ブドウなにするものぞと山梨県人が大気焔を上げていた時代が確かにあった。
それも一過性の風聞でなく、明治初期から大正の中期あたりまでの長きに亘って、確固として疑うべからざる常識として通用していたというのだから驚く以外にないであろう。
なにゆえ、このような錯誤が起きたのか。
なるほど確かに歴史は古い。
なにせ、奈良時代に活躍した行基菩薩に起源を求める説とてあるのだ。もっともこれには確たる裏付けもないために伝承の域を出ておらず、信憑性はごくごく薄いが。
実在がはっきりと確認できるのは戦国時代に入ってからだ。甲斐武田家中のさむらいどもがこのブドウを贈答品として活用していた史料が遺されている。
もっとも当時の生産地は「笹子おろし」と呼ばれる乾いた風の吹きつける、勝沼一帯に限られていて、今から見れば微々たる量に過ぎなかったようではあるが。
特筆すべき変革は、明治以降におとずれた。維新後この地に赴任して来た藤村紫朗なる知事が、ブドウ栽培に非常な興味を持ったのである。
(Wikipediaより、藤村紫朗)
彼は土着品種である「甲州」のみに囚われず、もっと大々的にこの事業をやろうと考えた。あるいはこの男の頭の中には、現在の「果樹王国」たる山梨の姿が描かれていたのやもしれない。
その実現のため藤村は、就任早々フランスに人を派遣して、彼の地に於ける先進的なブドウ栽培とワイン醸造を研究すべく命令している。
不幸というか、錯誤の元ダネはここで生まれた。
派遣された人物は、確かに藤村の期待に応え、優良なるブドウの苗木を持って帰還した。
が、その生育に当たって決して欠かすことの出来ない必需品――ボルドー液に代表される、農薬・除虫剤のことごとくを忘れていた。
結果、折角の舶来品はことごとく枯死。ただ一種の例外は、蟲害には強いものの味はすこぶる粗悪劣等な低級品で、フランスでは誰も生食する者はなく、ワイン醸造以外の使い道が存在しない種であった。
焦ったのは派遣された彼である。それはそうだろう、態々県庁のカネで外遊し、結果を出すことをあれほど望まれていたにも拘らず、その結果がこれとあってはどのツラ下げて報告するのか。
下手をせずとも、馘首はまぬがれないだろう。窮した彼は、実に役人的な行動に出た。たった一種残った低級品をさも西洋ブドウの代表格のように触れ込んで、
「とてもとても、『甲州』には敵いませぬ。フランスといえど、あれ以上のブドウは持たないようで」
と、輸入に失敗したのではなく、輸入する必要がないという具合に話をすり替えてのけたのである。
この弥縫策に、知事以下県庁吏員のことごとくが乗せられてしまったというのだから、社会というのはひょっとすると、信じられないほど容易い場所であるかもしれない。
ともすれば策を打った本人さえもこの「成功」が信じられず、白昼夢でも見ているのかと頬をつねったことだろう。
甲斐のくにびとがこの迷妄から醒めるのは、大正時代、西園寺公望の訪問まで待たねばならない。
この慶事に際して山梨県の有志どもは、何の迷いもなく食卓に「甲州」を添えて差し出した。
日本どころか世界一と信ずるところのブドウである。パリに留学した経験を持つ西園寺公望相手だろうが、どうして怯む必要があろう。一同は当然、この「維新の元勲」から賞讃の言葉が貰えると思い、今か今かと固唾を呑んで見守った。
ところが何ぞや、作法に則り、食事を終えた公が漏らした言葉たるや、
「やはり西洋ブドウの方がよろしい」
の一言のみとは。――
このとき山梨県人が味わった衝撃たるや、天地逆転に匹敵すると表現しても決して過剰ではないだろう。とてつもない痛みと共に、彼らは自分たちが井の中の蛙に過ぎなかったことを理解した。
その後、「甲州」は改良に次ぐ改良を加えられ、2010年には甲斐あって、
日本固有のブドウ種でこの認定を受けたのは、実に「甲州」が初のこと。
今ならば、西園寺の舌すら唸らせる自信がある。甲斐のくにびとの執念が、ついに嘘を真に変えたのだ。
――電車の窓から久方ぶりの甲府盆地を眺めつつ、私はそんなことを考えた。
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