穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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大切小切ものがたり・前編 ―武田信玄以来の祖法―

 

※2022年4月より、ハーメルン様にも掲載させていただいております。


 いやしくも山梨県民を、甲州人を名乗るなら、大小切騒動にまつわる知識はごく当然なたしなみ・・・・として具えておかねばならないだろう。


 現に私は義務教育でおそわった。


 忘れもしない中学生の頃のこと。当時の私の日本史教諭は教科書をありがたがらない性格で、しばしば授業を脱線させては豪傑たちのあられもない私生活、法律の意外な運用実態等々、いわゆる「歴史の裏話」談議に熱を上げる人だった。


 日教組の影響極めて強い山梨県の教師としては、めだって異例な人だったろう。


 受験にはまるで役に立たない知識であるため、級友の中にはあからさまに辟易し、「いやな先公に当たってしまった」と不平がる輩も少なくなかった。が、私にとっては素直に恩師と尊敬できる、数少ない一人である。


 私の日本史に対する興味の素養は、このときに培われた部分が確かに大きい。


 だからだろう。大小切騒動、明治時代の黎明に、山梨を舞台として巻き起こったこの大規模農民暴動の名も、私の記憶に色濃く刻印されている。

 

 

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 ――遡れば永禄年間、武田信玄の盛時から。


 甲斐国には特殊な税制が行われていた。その年に納めるべき年貢高、これをいったん2/3と1/3とに分割し、前者を「大切」と呼び籾を以って納めしめ、後者の方は「小切」と呼んで、金銭で納めさせることにしていたのである。


 江戸時代では「石代納」の名で知れ渡ったやり口で、それ自体はさして珍しいものでない。


 大小切の特殊性は、その為替レートにこそあったろう。はじめ信玄は甲府勝沼鰍沢三郡に於ける米市場の価格を調べ、その平均値を算出し、


 ――今年は何石何斗何升あたり一両の比率で取り立てよ。


 と小切のたか・・を決定したが、やがてこれを固定化させた。


 実に元亀三年十月十日の沙汰であり、以後四石一斗四升を一両として計算するのが小切に於ける鉄則となる。


 驚くべきことに、江戸時代三百年を通しての間、甲州人はついにこのコメ・カネ交換レートを守り抜き、一文の変更だに許さなかった。


 変更しようと試みる者に対しては、ほとんど子連れの熊に等しい猛々しさで突進して威喝した。

 

 

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Wikipediaより、荷車に乗せられた俵) 

 


 たとえば宝永年間にこの地を領した柳沢吉保譜代大名切れ者が、あるとき大小切法を廃して全部米納に切り替えようとしたところ、たちまち盆地に殺気満ち、今にも騒動に発展しそうになったので、あわてて沙汰止みにしたことがある。


 文字通り「鉄の掟」として機能させたといっていい。


 知っての通り米価など、年ごとによって大きく変動するものだ。そのあおり・・・が石代に及ぶのはむしろ自然で、


 ――二石五斗あたり一両。
 ――一石二斗五升あたり一両。


 と、他国が石代を下降させ、百姓の悲鳴が木霊する中、しかし甲斐だけは微動だにせず、四石一斗四升が保たれていた。

 


 勝頼没落後、甲州一円に大神君御手に入ても、信玄の政事を御正なく、(中略)小切も古来の通四石一斗四升替の金納也、信玄世にては高値段にて過怠金なれども、時世押移り、米穀の価貴く成、当時にては至て安値段、多分の御救なり(『地方凡例録』)

 


 その偉観。


 実利以上に、甲州人士の自尊心を育む上で、これほど役に立ったものはない。


 もともと山梨県というのは、富士山と武田信玄以外、これといって他国に誇れるなにものをも持たない土地だ。

 

 

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 それだけにこの二つにかける執念ときたら切実で、ちょっと余人には理解し難い烈しさがある。


 だから新政府が明治五年、税制改革の名の下に、大小切法を廃止すると告げたとき。


 彼らの受けた衝撃ときたら、まったく天の墜落を目の当たりにしたに等しい、途轍もないものだった。

 


…山梨八代各村の百姓は大に恐慌を来し、寄ると障はると其話計りして碌々仕事も手に付かぬ有様、何とか従前通り大小切制度を存し置かるる様の工夫なきものにやと、至る処に嘆声聞かれたり。(昭和五年発行『維新農民蜂起譚』242頁)

 


 とは、騒動の渦中となった東八代郡一宮の人、水上文淵翁の記録。


 翁は若干12歳にして大小切騒動に際会し、長じては小学校教師として働く傍ら、後世に向ってよく証言者としての任を果たした。

 

 

 

 

 


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