2020年最初の読書は、1944年刊行の、『甦へる無醫村 ―雪国に闘ふ女醫の記録―』という古書だった。
1944年といえば、すなわち昭和19年。
敗戦の前年度に他ならず、既に末期的様相を呈しつつある日本に於いて出版された書籍ときては、いきおい身構えざるを得ない。
一行一行、丹念に読んだ。
それに相応しい、力の入った書であった。
全町村の実に三分の一近くが無医村だったというかつての日本。山形県の中央部、寒河江川上流・出羽三山中の小天地に広がる大井澤村もそうした「医者なき僻村」の一つであって、いやむしろ典型的といってよく、衛生設備の不足によって、今日ならば造作もなく救かる命がばたばたと失われてゆく地であった。
ことに乳幼児の死亡率の高さときたら、目を覆うより他にない。
本書はそんな大井澤村のありようを憂い、憂うのみならず実際に事態匡救のため文字通り粉骨砕身して事に当たった、志田
左様、志田周子。
5年前の2015年には『いしゃ先生』という、やはり彼女を主役に据えた映画が製作されていることから、それで聞き覚えのある人も多いかもしれない。
本書を著した福岡隆という記者が志田周子に面会したのは1943年5月のこと。太平洋側ではとうに桜も散っていようが、東北の、しかも日本海側に当たる山形県ではそうもいかない。取材の前に彼はまず、五里の雪道を踏み越えてゆかねばならなかった。
言うまでもないことだが、平地と山道では同じ距離でもかかる労力はまったく違う。
おまけにともすれば膝まで埋没しかねない雪に覆われているとあっては、その苦しみは言語を絶したものだろう。本文中でも福岡は、
進むにつれて、重畳する山峡の道はいよいよ細く嶮しくなってゆく。そして、千仭の足下には、雪解に水勢をました寒河江の濁流が、滔々と岩を噛み渦を巻き、奔馬のごとく荒れ狂って川下へ川下へと駈け下りてゆく。私はその凄まじい自然の前に、何かしら名状しがたい威厳と空おそろしさとを感じた。
往き交ふ人影すらない雪に埋もれた山道、しかも、行く手には雪崩落ちた巨岩や落ちかかった古橋が私を待ちもうけてゐる。つぎつぎに起る障碍、ややもすれば私の強靭な意志もとろけさうになる。(17~18頁)
と、正直な恐怖と萎えかける心気を吐露している。
が、その度に彼は自分自身を激励し、前へ前へと進んでいった。
何を隠そう、福岡自身も無医村までとは言わないが、医療機関のすこぶる未熟な離島の生まれだったのである。
そのせいで、少年時代に早々と両親を亡くすという不幸さえも経験している。
やがて志を立てるに至り、東京に遊学した福岡青年は衝撃を受けた。いったいなんだというのだろうか、この医療機関の発達ぶりは。
この十分の一でも故郷に備わっていたのであれば、父と母はああまでむざむざ、泉下の人にならずに済んだ。衝撃は、単に衝撃のみでは終止せず、炎となって荒れ狂う。
都市にばかり醫療機関が集中して、地方の農村が捨ててかへりみられないといふのは、どう考へても不合理である。むしろ、衛生施設にめぐまれない農村にこそ、醫療機関が必要なのだ、農村に醫師を送れ――
さうした叫びは、長いあひだの私の持論となった。(10頁)
そんな福岡隆にとって、栄えある東京女子医専――現在の東京女子医科大学の前身に相当――を、しかも抜群の成績で卒業しながら敢えて出世街道に背を向けて、斯くの如き人も通わぬ山の底、人口1200人程度の故郷に帰り、地域唯一の医師として献身する道を選んだ志田周子という人は、まさしく理想の体現者であったろう。
惹きつけられないはずがない。S極がN極を恋うにも匹敵する熱烈のもと、彼は山道を進んでいった。
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