穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日本人留学生の目撃したる第一次世界大戦下のヨーロッパ ―前編―

 

 そのころのベルリンに、鶴見三三さんぞうという名の日本人が、医学留学のため滞在していた。


 そのころ・・・・とはすなわち、
 バルカン情勢が日に日に悪化し、
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、
 列強の何れもがこの「火薬庫」を解体し得ぬまま、
 ついにサラエボ事件の凶弾により一大爆発を見る破目になり、
 全世界規模で風雲急を告げ始めた、
 第一次世界大戦勃発間際のことを指している。


 昭和十一年に刊行された鶴見三三自身の著作、『明日の日本』の記述に依れば、当節彼が籍を置いていた研究所の名はカイザー・ウィルヘルム研究所。焦げ臭さを増す時勢に対し、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいられぬことはその名を一瞥しただけで分かるだろう。


 現にサラエボ事件以後、この研究所はシャカリキになって赤痢及びコレラの予防接種液を生産している。
 鶴見がその理由について、所長を務めるワッセルマン博士に訊ねてみると、


「東部国境に出かける兵士に注射するためのものだ。戦争はもはや不可避だろう」


 そんな答えが返って来、思わず鶴見を戦慄させた。

 

 

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 ワッセルマン博士の名は、ひょっとするとワッセルマン反応でご存知の方もいるかもしれない。1906年梅毒の血清学的診断法を発見した、A.ワッセルマンその人である。


 彼が予言した通り、1914年8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告。露仏同盟の手前、同時にフランスをも敵に回すことになり、ここに騒然たる戦火の歴史の幕が上がった。


 が、鶴見留学生にとって特に印象深い出来事はその日ではない。


 宣戦布告の翌日の、2日の夜こそそれ・・が起きた日であった。


 この晩、二・三人の留学仲間と語らってウンター・デン・リンゲンに位置するとあるカフェに乗り込んだ鶴見は、まったく予想だにせぬことに、店内にいたドイツ人というドイツ人から引きも切らぬ歓迎を受けた。


 分厚い手で肩を叩かれ、愛嬌たっぷりの笑顔を向けられ、さあさまずは一杯と、コップにビールをなみなみ注いで差し出してくる。こんなもてなしを受ける心当たりが、しかし鶴見には毫もなく、目を白黒させていると、一人がやにわに号外記事を差し出してきた。


 見れば、「Jppan hat den Russland erklaert」――「日本はロシアに宣戦せり」と、デカデカと書かれているではないか。

 

 

 


 この虚報については以前、上の記事に於いても触れた。
「数千の群衆が日本大使館の前に押し寄せ万歳を叫び、民衆のみならず総参謀長までもが半ば真に受け、特使を派遣して風説の真否を訪ねた」と。


 その熱狂の渦に現に巻き込まれた日本人の証言として、鶴見の存在は貴重である。

 


 吾々はあっけに取られて、イヤこんな事は知らないと云ふと、日本人は今日からドイツの味方だ、まあ一緒に祝杯を上げようと、ビールの満をひき、それから各方面のカフェーをのぞいて見ても何処も同様で愉快な晩であった。(『明日の日本』8頁)

 

 

Berlin Unter den Linden um 1900

 (Wikipediaより、1900年ごろのウンター・デン・リンゲン)

 


 ところがこの親日ムードは、実に儚い。砂漠に落ちた雨さながらに、三日と保たず消えてしまった。


 契機きっかけは、8月4日にベルリン駐箚の英国大使が旅券を要求したことによる。


 外務大臣ゴットリーブ・フォン・ヤゴーは蒼白になった。この時期に大使を引き揚げさせる理由は一つしかない。彼らはドイツと敵対する気だ。事実、それから数時間と経たない内に正式な宣戦布告の通達が。


 イギリスは局外中立を決め込むだろうと見積もって、それをすべての計算の基礎に組み込んでいたドイツにとって、これほど衝撃的な事態はない。


 またしても号外が乱れ飛び、「rings um Feinde」――「四方皆敵」と大書されたその見出しが国民の敵愾心を高潮させる。同時に彼らは、日本に対しても疑いの目を向けずにはいられなかった。日英同盟を結んでいる関係上、あの極東の島国もまた、敵方につくのではあるまいか?

 


 吾々日本人が市中を歩いてゐるとやたらにドイツ人につかまり質問を受けた。それは日本はどうするのだといふ事だ。吾々は、留学生だから詳しい事は分らないが、日英同盟は東洋に限局するので欧州の戦争に日本は関係するまい。少なくとも局外中立を守るだろうと信じてゐると答へた、するとさうかなと、うなづいて別れる人もあるし、いやさうはゆくまい、と不承知顔をして行く者もあった。(9頁)

 

 

Gottlieb von Jagow circa 1915

 (Wikipediaより、ゴットリーブ・フォン・ヤゴー)

 


 対岸の火事と思っていた火が、気付けば足元の草を焼き、そろそろ靴を焦がしはじめた。


 8月1日からこっち、ベルリンに滞在していたロシア人が片っ端から捕らえられ、牢獄にぶち込まれる有り様を、鶴見は一度ならず目撃している。


 あれが自分の身の上にも起こるのでは? ――と、その恐怖がリアルなものとして顕れはじめた瞬間だった。

 


 七、八日の頃と思ふが、Was macht Japan?(日本はどうするのか)と新聞に見出しがありそろそろ日本人にお鉢が廻って来て、時には石をぶつけられた人もあり、又悪口をあびせかけられるようになった。が併し大使館に行っても日本からは公電は勿論何等の情報も入らないので、大使館でも困ってゐた。(10頁)

 


 大日本帝国が帝政ドイツに最後通牒を突き付けるのは、8月15日のこと。


 ただ、この方針を確定するのに国内でも相当紛糾があったのは確かで、それまでドイツの日本大使館はつんぼ桟敷に置かれたらしい。


 これほどの大事、軽々に決められないのはよくわかる。だが、大使館を頼みの綱と仰ぐ在独日本人にしてみれば、たまったものではないだろう。

 彼らこそ、まったくいい面の皮に相違なかった。

 

 

 

 

 


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