大正時代に活躍した医学者にして文筆家、小酒井不木はその著書に於いて、
病中癪に障るものの一に検温器がある。検温器そのものが癪に障るのでなくて検温器の示す度数が癪に障るのである。よく考へて見れば検温器は正直に体温を示してくれるのであるから少しも罪はないわけであるが、それでも水銀線が三十七度以上まで昇ると、検温器を叩き割ってやりたいやうな気が起きてくる。(中略)たとひ体温が三十七度以上あるといふことを意識しても、検温器で正確な度を示されることにはどうしても堪へられなかったのである。丁度人間は百年以内に死なねばならぬと意識しても、何十何歳で死ぬといふことが若し決定的に知れたなら、非常に不快に思ふであらうと同じ心理状態と見るべきものであらう。(『小酒井不木全集 第八巻』、37頁)
かく述べている。
病床に伏せるを余儀なくされた者の心理を、きわめて精緻に叙述しきったものだろう。
以前の記事にても引用したこの下りを、今再び持ち出したのにはむろんのこと
これと瓜二つな現象が、私の身にも目下起きているからだ。
といって、私が煩わされているのは体温計にあらずして、気象庁の台風情報こそに、だが。
アレの挙動が、いちいち恐ろしくて仕方ない。
あんな怪物がもし真っ直ぐ突っ込んで来ようものなら、私が現在腰を据えてるアパートなんぞ、木の葉よろしく吹き散らされる想像以外湧かないからだ。ここ二三日、進路予想図を凝視しながら逸れろ逸れろ、関東平野を遠く離れて東の洋上に消えてくれ、と睡眠時間を削ってまで念じ続けた。
ところが私の祈りも空しく、19号は冗談みたいに強い勢力を維持したまま、「関東にとって最悪の進路」を脇目もふらさず驀進してきやがる始末。
おまけに一向やわらぐ気配を示さない、あの中心気圧ときたらなんであろう。950どころか940hPaにも達さないまま万一上陸したらと思うと、ほとんど悩乱したくなる。衝動的にスマホをぶち折ってやりたくなった回数は、正直言って数え切れない。
そんな所業に及んだところで台風の現実に些かの変化も起き得ぬことは重々承知しているけれど、それでもこうまで悪い報せばかり齎されると、なにやらこの近代機器が私を苦しめるため設計された拷問器具のように見えて来て、その悪意から逃れるためには、更に数倍する悪意をこちらから叩きつけてやる以外にないような気がし、居ても立っても居られないのだ。
小酒井不木も似たような心理に陥ったらしく、その証拠に、
検温器なるものは健康な人がその健康を誇るために必要なもので、病気の人には禁物だといふやうな矛盾した結論さへしてみたくなる。(同上)
このようなことを書いている。
ともすれば、台風情報とて同様ではあるまいか。つまり運悪く進路上に位置してしまった人にとっては禁物で、台風の影響が及ばない、安全な場所から眺めるのが本来の使い方である、と――ああ、いよいよ人間性が
台風19号が如何に私の精神に圧迫を加え続けているのか、象徴する事例が一つある。
今朝方の夢だ。
夢の中、私は電動ドリルを扱ってひたすら材木に穴をあけていた。
木屑がとびはね頬にぴしぴし当たる感触を、未だにはっきり記憶している。
雨戸のない窓のことが不安でならず、いっそのこと板を打ち付け封鎖したいと願ったことが、如実に反映されたのだろう。
我ながら素直というか、単純な構造の脳である。だから未だに、奇蹟を期待する心が棄て切れないのだ。何か思わぬ作用によって、台風が誰も想像しなかったような軌道を描き、列島に大した被害も与えぬまま消え去ってはくれないものか。
嗚呼。
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