穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

重工業王・鮎川義介 ―フリーハンドで正三角を描く男―

 

 東京帝国大学工学部を卒業後、大叔父たる井上馨三井財閥入りを強く奨められておきながら、敢てこれを蹴り飛ばし、何の変哲もないただの単なる一職工として芝浦製作所に入社――。


 これは少年漫画のあらすじではない。
 歴とした、実在の男の足跡である。
 名を、鮎川義介といった。

 

Aikawa Yosuke

 

 苦みばしりつつも、どこか少年のにおいを残した顔立ちである。
 このごろカルロス・ゴーン関連で日産の名を聞くことが甚だ多いが、その日産自動車を包含する、日産コンツェルンを築き上げた人物がこの鮎川に他ならない。
 父親は、元長州藩鮎川弥八
 この弥八が、晩年息子に興味深いことを言い遺している。


「お前は仕事ばかりやっていて、無粋者じゃ」


 と言うのである。
 なるほど義介はまるでなにかに憑かれたように、よく働く男であった。前述の通り職工として下積みを重ね腕を磨く一方、油断なく周囲に観察の目を光らせて、やがて


 ――日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。


 との真理を感得すると、


 ――ならば日本で学んでいても仕方あるまい、卸元・・から直接じかに学ぼう。


 そう決意するや、にわかに日本を飛び出して単身渡米するあたり、腰に弾機でも仕込んでいるのではあるまいかと疑いたくなるほどエネルギッシュな行動ぶりだ。
 で、アメリカに渡って義介が何をしたかと言うと、大学の門を潜ったわけでも各地の大工場を順繰りに視察していったわけでもなく、なんとまたしても片田舎の鋳物工場に潜り込み、週給5ドルの見習工として雇われたのだからたまらない。
 この時の経験こそが彼をして後の重工業王たらしめる、かけがえのない土台になったのは確かだが、親としては気が気でなかったに違いない。

 子の安定を望むのは、万古不変の親の心理だ。


 ――あっちへふらふら、こっちへふらふら、あいつはいったい何をやっているのか見当がつかん。


 と、弥八は思ったのではあるまいか。
 結果、前述の


 ――お前は仕事ばかりやっていて、無粋者じゃ。


 との台詞に繋がる。
 弥八、更に言を進めて曰く、


「人間は、何か一つの趣味、仕事以外の道楽がないと、老境に入ってから困るものじゃ。わしは幼少の頃、暫く萩の明倫館で先生から詩を習ったのであるが、それが今になって愉しめる。もしこの趣味がなかったならば、宿痾に責められ通しで、生甲斐とてはあるまい」


 弥八は長命したものの、持病のリウマチが年々悪化し、晩年には足腰も立たなくなっていた。
 それでも彼の老境が決して陰惨なだけの代物に終わらなかった所以を探れば、まったくこの詩作に救われた部分が大きかろう。詩作ならば、寝床に臥せっていても出来る。

 弥八はこれに熱中し、よほど腕が進んだらしく、日に10、20と作ることも珍しくはなかったという。
 死後、その作品を纏めてみると一万作を超えていた事実から鑑みて、誇張ではあるまい。


「だから」


 と、しっかりした声で弥八は義介に訓戒した。


「お前も何か一つの道楽を始めるがよい」


 親が子供に、遊んでばかりいるな働けとではなく、働いてばかりいるな遊べと叱ったのである。
 なんという光景であろう。この子にしてこの親ありと言うべきか、武士であっただけあって、弥八も尋常な男ではない。実に道理を解している。『進撃の巨人』でケニー・アッカーマンが示した通り、人生を豊かにしてくれるのは「趣味」なのだ。


 ――なるほど確かにその通り、父の言う事ももっともだ。


 と、義介は逆らわない。
 自分も何か趣味を一つ見付けようと周囲を見回し、やがて手に取ったのが「絵」であった。
 義介は絵を描くことに熱中し、熱中するようおのれを導き、興が乗った日には200枚もの画用紙を費やすことすらあったという。


 が、絵とひとくちに言ったところで我々が想像するような通り一辺倒のやり方ではない。


 この男はまず、三角形を書き始めた。
 それも正三角形を、毛筆、かつフリーハンドで、正確に描き上げるのを目指したのである。

 

f:id:Sanguine-vigore:20190310161104j:plain


 実際に試してみれば、それが如何に難事であるかわかるだろう。ほとんど不可能とすら思われる。が、義介はこれに習熟し、ほどんど過たない領域まで到達した。


「本当に正三角をフリーハンドで描けなければ、絵を描く資格がない」


 と、わけのわからぬことまで言い出し、筆者を困惑させてくる。
 が、よくよく思い合わせてみるに、鮎川義介は財閥の頂点であると同時に叩き上げの職人でもある。
 仕上げ工から開始して、機械、鍛造、板金、組み立て、そして鋳物と、ひとつもおろそかにせず順序を踏んで習熟してきた。
 ならばその手先の精妙さが、「芸」の域に達していたとしても決して不思議ではないのではないか。


 きっと、本当に描けたのだろう。フリーハンドで、正三角を。


 もっともそれで満足する義介ではない。三角に充分熟達したと認めると、


 ――頃や、よし。


 として、次の段階へと歩を進めた。今度は「円」に取り掛かったのである。

 

f:id:Sanguine-vigore:20190310161139j:plain


 やはり毛筆、フリーハンドで描き上げる。


「これは三角よりもよほど難しかった」


 とは本人の言。だが、難しければ難しいほどよいのであろう。その難しいことを繰り返し繰り返し稽古して、立派にこなせるようになる、その上達の過程にこそ義介は趣味の醍醐味を見出していたようだ。
 歯ごたえがあってこその趣味。フロムソフトウェアの作品をこよなく愛し、縛りプレイすら堪能する私には、ある程度共感のゆく感性である。

 

 鮎川義介の精神は、とことん止まるところを知らぬよう設計されていたらしい。真円すら指先のみで描き出し得る域に到ると、今度は「合わせ技」に着手した。つくづく以って、生きている限り上を目指さずんばやまない男だ。
 まず正三角形を描き、しかる後にその内側に、各辺に接する円を描く。ここまで行ってしまうともう、禅の修行のような趣さえ帯びてくる。


 実際鮎川義介の精神は、同時代のどんな僧侶より神韻縹渺、深く三昧に入りたるものがあったろう。

 

 

 

 

 


ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
この記事がお気に召しましたなら、どうか応援クリックを。
 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 本ブログ 古本・古書へ