『三国志』の登場人物に
諸葛亮孔明の死後、彼の後を継いで蜀を治めた人物だ。諸葛亮が直々に、
――わが亡き後は蒋琬を立てよ。
と言い遺してあった事に依る。この時点で彼の手腕は大方察しがつくだろう。保証済みといっていい。
が、なにしろ
その才知の輝きが、1800年後の今日にまで曇ることなく投射され続けている中国史上稀に見る域の傑物である。
況してや当時に於いてをや。星々の輝きが陽光に掻き消されるように、諸葛亮の天才に比べ蒋琬の姿がどうにも地味で、なにやら冴えない霞んだ男との印象しか人々が抱かなかったのは自然法則に等しい不可避の流れであったろう。
――あの人で大丈夫なのか。
と、そこかしこで囁かれた。
中にはもっと口さがのないやつも居て、
「事を
あいつの仕事はチグハグで要領を得ず、いたずらに混乱を招くだけであり、孔明にはとてもとても及ばない――とまで揚言される始末であった。
この揚言は、ふとしたことから蒋琬当人の耳にまで入った。
周囲は当然、蒋琬の激怒を予想した。発言者は明日の今頃には、首を打たれて門前に晒され烏に目玉を突かれているに相違ない。
ところが豈図らんや、現実の蒋琬は顔色ひとつ変えることなく、
「吾実に先人に及ばす」
その通りだ、自分は確かに諸葛亮には及ばない――と、あっさり認めてのけたのである。
発言者を罰するどころか殊更に追求しようともせず、そんなことはもう忘れたような顔つきで、平生通り淡々と政務に取り組み続けた。
――あれは存外、人物なのではあるまいか。
この一件が契機となり、蜀ではにわかに蒋琬を見直す向きが増したという。
やがて彼が地味にコツコツと積み重ねてきた仕事が明確に実を結び出し、その悉くが当を得て過たなかったと判ると、民心は全く安定し、蜀は諸葛亮なる巨星の堕ちた動揺から立ち直った。
忍耐の、意志の勝利とはこのことだ。
蒋琬とて木石ではない、血の通った人間である。いちいち孔明と比較され、働きを正当に評価されない境遇に何も感じなかったわけがないのだ。
しかし彼の偉大さは、その苦渋・不満を欠片も表に顕さなかったこと。自分は諸葛亮に及ばないと痛いくらいに自覚して、才気煥発華やかなる彼の模倣に走ろうとせず、あくまで地味で質朴な、己のやり方に徹したという一事に尽きる。
これが出来なかったのが、我が故郷山梨の戦国武将――武田勝頼と云う男であった。
彼は耐えるべきだったのだ――
勝頼は決して無能な男ではなかったろう。
が、惜しいかな、短気で血の気が多過ぎた。父親との比較にすぐ逆上し、
――おれがどれほどの男か見せてやる。
と無用な衒気を発揮して、大働きに働いた結果が天目山でのあの末路。
勝頼はおのれの力量を認めさせようと奮闘したが、それは結局、彼の欠点を暴露するばかりで他にどんな効果も齎さなかった。
そのため甲斐の人々の心は離れ、寝返りが続出。かつてあれだけの勢威を誇った大武田家ともあろうものが、信じ難いほどの呆気なさで勝頼の肉体ごと地上から亡び去ってしまったのである。
短気は損気。
慌てる乞食は貰いが少ない。
噛み付くだけなら狗でも出来る。ときにはあれやこれやをぐっと堪えて、そう、さながら湖底にじっと潜んで寒さをしのぐ鯰のように「待ち」に徹する姿勢こそ、意志の強さを示すだろう。
さりとて早きを好むは人の天性。すぐにでも認められたいのは誰でも同じ、なろうことならとんとん拍子に出世したい。蹉跌なんぞは断然遠ざけ、成功ばかりを飽食したいものである。
だから笑顔ひとつ見せただけ、若しくはちょっと頭を撫でただけ――つまりは手軽なやりくちで、コロっと美少女が惚れてくれる物語が持て囃される。
注射一本でけろりと病が治ることを念願し、面倒な修行なぞ積むことなしに飲むだけで不老不死の身体になれる薬はないものかと夢想する。寝て起きるだけで金が増えているなど最高だ。
まこと、人間の横着さには限りがない。
とはいえそうした恥知らずな横着ぶりこそ、ときに文明を前進させるエネルギーにもなるのだが――主題と著しくズレるためここでは触れない。
確かなのは、いつの世も社会を構成する大多数は勝頼かその類型で、蒋琬の如くふるまえるのは一握りということだ。
凡庸に見えて非凡である。
逆に言うなら、蒋琬に学べば才など無くとも常軌を逸せる。
逸せるどころではない。私はこれこそ、凡人が天才に伍するための最短経路と信仰している。
実例がある。
その人物はきらびやかな才質なぞ欠片も持ち合わせていなかった。いつも他の、優れた誰かの手管を模倣し、独創の名誉と危険をとことん避けた。彼の打ち筋は堅実過ぎて、観客をしらけさせることも屡々だった。
にも拘らず、新境地を切り拓いた同時代の天才たちを差し置いて、ついに頂点、完全なる最終勝利者の栄冠に輝いたのは彼なのだ。
蒋琬型の人間――その究極の体現例は日本に在り。
家康公ほど生涯を通して逆境に晒され続けた人物というのも珍しく、また彼ほど不如意を飲み込み、粘り強く耐え忍んだ男というのも例がない。
今川から犬馬の如く扱われ、酷使されても我慢した。
多年に亘る武田の圧迫をこらえ続けた。
信長から妻と息子を殺すよう命ぜられても紙一重で辛抱して従った。
秀吉に古巣の三河からなじみのない江戸に封ぜられても、不満の「ふ」の字も洩らさなかった。
関ヶ原以降は寿命とさえ闘った。
そうして最後は天下をとった。
一連の事績からは、なにか、殺しても死なない異様な生命力の底流さえ感ぜられる。
家康公こそ日本史上最大の意志の力の持ち主だった。私はこれを疑わない。
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