戦史に於いて
決して生易しい
多数の支那人獨探は苦力に紛れて我軍に忍び入り間諜を働き居れり。(中略)九月三十日
野戦病院や衛生兵、軍医を優先的に狙うという戦術は、後の日中戦争に及んでも中国軍が好んで使うところであった。常套化したといっていい。彼らは軍医を失った部隊が如何に意気阻喪するか知っていた。
流石に孫子の国だけあって、戦争の鉄則を踏まえている。すなわち、人の嫌がることを進んでやる、というやつを。
是と同時に無智なる支那人は利欲に心を奪はれ
上陸以来盛んに放たれる「獨探」――ドイツの中国人スパイに対応しながら、陸軍は惨憺たる旅順要塞攻略の戦訓を活かし、短兵急を慎んで、ひたすらな準備工作に明け暮れた。
その期間、実に二ヶ月。
補給線を整え、物資を運び、塹壕を掘り、砲を設置し――執拗なまでの、準備に次ぐ準備。それがあったればこそいざ総攻撃に移るや否や、鉄の暴風と表現しても過言ではない猛烈なまでの火力戦を展開せしめ、僅か7日で要塞を陥とすことが出来たのだ。
死傷者も際立って少なかった。理想的な戦争遂行と評していい。旧陸軍が行った、最善の戦いであったろう。
そんな労苦の結晶が、昨今の歴史教科書ではまるで道端に落ちている空き缶を拾い上げでもしたかのように、至極あっさり記されるのみ。いや、それならまだしもいい方で、酷い場合は火事場泥棒か何かのように扱われている。
いくらなんでもあんまりだ。こんなことをされてはたまらない。
しかし本当にたまらないのは当時にあって、この日本軍の相手をさせられたドイツ将兵こそだろう。敵の有能に勝る不幸は滅多にない。
青島砲台陥落後、堡塁内から発見された将校の手記が、防衛側の彼らの心情をよく物語る。以下、この内の日本軍観に焦点を絞って抜粋。
八月十五日 日本は膠州湾を獲やうとして我青島の武装解除を要求した、いふ迄もなくイギリスといふ悪犬がけしかけて居るのである、日本が何を知るか、然し之が為吾人は吾人として何事かをなさねばならぬ仕事が出来た。幸福なことだ、吾人は吾人の部下を郷家に於て無為に送らせるより此地に死せしむるを以て吾人の名誉としやう。(同上、207頁)
名誉の戦死、死をば軽しと覚悟せよ――なにやら日本兵が好き好んで使いそうなフレーズである。
当たり前だ、旧陸軍の軍制の基礎を築き上げたのはメッケル――ドイツの参謀少佐ではないか。両者が似通るのも無理はない。
また、「悪犬」と毒づいているように、独軍の英国に対する憎悪はちょっと名状し難いものがあり、要塞内部に留まって戦闘を見届けた米国記者も、
獨軍は英兵を撃つ機会を如何に求めて居っただらう。彼の灰泉角砲台から発射した一弾が英艦に命中した時の獨人の歓びは日本軍艦高千穂の撃沈も之に及ばぬ有様であった。ドイツ飛行将校は白天幕を目標として英兵の陣営に
と報告している。
さもありなん、当時のドイツ国民は、まさか日本が自分達に宣戦布告して来ようとは夢にも思っていなかった。どころか逆に、かつて日露戦争をやった事実から考えて、日本はおそらくロシアに対してこそ宣戦布告するだろうという期待があからさまに濃厚だった。
これは満更根拠のない妄想でもない。ロシア帝国が日露戦争敗北の怨みを晴らすべく、第二次日露戦争の準備を着々と進めていることは誰の目から見ても明らかだった。
外蒙古にボグド・ハーン政権なる傀儡政権を作り出し、「解放」の名目で内蒙古にまで兵を進めたのがその顕著な例と言えるだろう。内蒙古まで来れば、もはや満洲は隣ではないか。
放っておいても、ロシアはいつか必ず来る。ならば欧州に戦火が勃発したのを幸い、ロシアに二正面作戦を強いることが可能な今こそ千載一遇の好機と捉え、禍を未萌に防ぐため、その後背を衝いていい。否、衝くべきだ、衝かねばならぬ。
当の日本国民が聞けば仰天したかもしれないが、ドイツ国民一般は割と本気でこう考えていた。そうでなければ大戦勃発から間もなくのドイツ本土に於いて、
――日本がロシアに対して宣戦布告した。
との虚報がどこからともなく流れて来た際、彼らが演じた狂喜乱舞はとても説明がつかぬだろう。
数千の群衆が日本大使館の前に押し寄せ万歳を叫び、民衆のみならず総参謀長までもが半ば真に受け、特使を派遣して風説の真否を訪ねたのである。鼎の沸くが如しというか、今際の際の老人さえもたちどころに跳ね起きて、表通りでタップダンスでも踊りかねない熱狂ぶりとはこのことだ。
それだけに、いざ日本が最後通牒を突き付けたときの衝撃ときたら言語を絶した。ドイツ国民は深く深く失望し、その失望がただちに嚇怒の炎となって燃え上がり、新聞には日本を罵倒する意味の単語が氾濫した。
また、この不条理を合理的に説明するには、どうしても黒幕的存在が必要となる。
そこで槍玉に挙げられたのが英国だったというわけだ。彼らはいつもそんな挙動ばかりしているから無理もない。
――日本は憎いが、黒幕たるイギリスはもっと憎い。
という青島守備隊の心情は、このような背景の下成り立っている。
八月十六日 皇帝より電報を得た『青島は最後の一人に至る迄之を死守せよ。ウィルヘルムⅡ世』(同上、207頁)
総玉砕の指示である。
それはそうだ、どこの国の大本営が最前線の兵士に向かって「全滅するくらいなら降伏しろ」などと言うのか。「全滅してでもそこを守れ」と叫ぶのが、寧ろ健康な軍隊である証明だ。
命じたところで律義にそれを順守して死ぬる輩が滅多にいないだけである。ただ、旧陸軍に代表される、ほんのわずかな例外を除いて。
現にこの青島戦に於いても、ドイツ将兵の大多数は最終的に降伏している。
九月五日 支那人に変装せしめた我ドイツの間諜の報告に依ると、日本軍はドイツ軍が侮り難き兵力を有し且敏捷にして勇敢なる事を認めて居るといふ。日本軍は既に我青島攻撃にやって来た、よし吾人は彼れの死骸の上に吾人の道を開かん。(同上、208頁)
これを見ると、どうやら本物の中国人以外にも獨兵が化けた――いわば偽装中国人の「獨探」が盛んに跳梁していたようだ。
九月二十八日 日本軍は正面に前進し中央の陣地を構築した。墺艦エリザベス獨艦イルチスは敵の作業を妨げんため猛射をした。我陸軍正面の砲台は日夜敵を砲撃して居る吾人は
正鵠を射た日本軍観といっていい。結局、戦場で一番強いのは死兵なのだ。
貶しながら一方で敵の強さを讃えてもいる。軍人的というより武人的精神の発露がみられる。
十月三十一日(筆者註、日本軍総攻撃開始の日) 早朝我砲から一発を放つ、敵は
十一月一日 敵は我
なんということであろう、日本軍が火力で敵を圧倒している。
日本軍と聴けば、基本的に大東亜戦争に於いて英米の火力に圧倒されてばかりいるイメージが先行してくる私にとって、このあたりの記述は新鮮な驚きなくして読めないものだ。これが思考のバイアスなのか。
十一月五日 正午敵の一火砲は我砲台を射撃した、吾人も之に応射したが、我背面にある敵の砲台(海軍か)からも打ち出して、終に吾人は敵の十字火に陥った。午後命令を受領する『我全弾を射撃し尽し次いで工事を爆破すべし』即ち余は我火砲を以て六十発を発射の後、火砲が既に戦闘力を失ったことを知り其儘にして夕方から全砲台員は歩兵の陣地(堡塁)に進展した。吾人は最初より我全火砲を以て三百発以上を射撃した。(同上、212頁)
ビスマルクの名に恥じることなき、見事な戦いぶりである。
十一月六日 本日余は歩兵陣地より帰還し終日休息する、五時再び陣地に就く、此夜吾人は敵の突撃を期待せり。(同上)
この翌日、青島要塞は陥落した。
開城の際、日本側は敵将アルフレート・マイヤー=ヴァルデック総督に帯剣を許した上で会見し、その名誉を全うさせている。
恰も水師営の会見に於けるステッセルが如し。この日に先駆けること二年前、明治帝の崩御に殉じて自刃した聖将・乃木希典の精神は、しっかりと陸軍の中に受け継がれていたようだ。