穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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我が神、生田春月

 

 厭世家にも慰めはある。厭世それ自体が一つの快楽である場合も多い。静かな丘の上にひとり坐して、十分に人間を憎み得る時は、厭世家にとっていかに喜ばしい時であらう。人生の中から悲惨な事実をあとからあとからとかき集めて来て、かりにも人生を楽しいものだなどと云ふ者があれば、これでもかこれでもかと突き附けてやる時はどんなにか胸がすくであらう。(昭和六年『生田春月全集 第一巻』9頁)

 

 この一文によって、生田春月は私にとっての神になった。

 

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 それまで胸奥深くに渦巻きつつも、どうしても上手く言語化できなかった私の情動――朦霧の如きその物質が、この如何にも神経質そうな外貌を持った鳥取生まれの詩人の言葉に触れるや否や、にわかに凝集されきらきらと結晶化されてしまったのである。


 ああ、なるほど――それでいいのか、おれが望んでいたのはつまりそういうことだったのか、と。


 すとんと、文字通り腑に落ちたのだ。
 英雄とは、大衆がその心中に漠然と抱えているなにごとかを、「これだ」と取り出しつまび らかにして明瞭に分からせてくれる者だと云う。
 だが、生田春月ほど「英雄」という響きが持つ語感から遠い人間も珍しい。
 よって私は彼を神として扱うことにした。もっとも私の神はたくさん居るので、新たなる一柱として迎え入れた、と述べた方が正確かもしれない。


 異議を唱える方は多いだろう。近年、人は神にはなれないという論調がどうも主流であるらしく、であるが以上、反撥は容易に想像のつくことだ。が、私はこれは間違いだと思っている。
 人は神になれる。正確には、生者が死者を神の位に押し上げる。
 子孫が弔いを絶やさぬことで、死者の魂を純化し昇華し、やがて神へと至らしめるのだ。それこそが惟神かんながらの道――神道の理念に他ならない。


 まあ、それはともかく。


 信徒となったからには、私にはやるべきことがあるだろう。
 そう、布教活動である。
 誠心誠意励んで行きたい。実際問題、生田春月の名は現代に於いてほとんど忘れ去られた観があるが、この人をこのまま過去に置き去りにしておくのは、日本文化にとって巨大な損失だと思うのだ。
 よってこれから暫くの間、彼の詩の中で特に琴線に触れたものをテーマ毎に分類し、順次掲載して行こう。
 その際、春月の詩が持つ独自の風韻を壊さぬように、私自身の感想は最低限度にとどめたい。作者と同じく、その作品も繊細なのだ。丁寧な扱いを心懸けねば。


 それで充分、我が意は達せられるはずである。

  

片隅の幸福 (国立図書館コレクション)

片隅の幸福 (国立図書館コレクション)

 

 

 

 


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