穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ますらをの真心こめて一筋に ―原田二郎の積み上げたもの―

 

 嘉永二年というから、黒船来航のざっと四年前のこと。


 紀州藩士原田清一郎の長男として、原田二郎はこの地上に生れ出た。


 維新後東京に出て洋学を修め、頭角を現し、やがて大蔵省の官僚に。銀行課に奉職するうち、同じく紀州出身の大実業家、岩橋轍輔に見出され、その娘を妻に迎える。


 これが更なる栄転へのバネとなり、弱冠31歳にして、第74国立銀行頭取に。現在の横浜銀行の前身に当たる、そんな機関の頂点に立てた裏面には、むろん岩橋の大きな力添えが存在していた――。

 

 

Bank of Yokohama Headquarters 2012

 (Wikipediaより、横浜銀行本社ビル)

 


 とまあ、こんなことをいくら書き並べても、所詮履歴書を機械的に読み上げているようなものであり、原田二郎がつまりはどんな男であったか、ピンと来る人は少なかろう。


 原田二郎を理解するなら、二つの事実を示すに限る。


 一つはこの人が82歳という、当時に於いては稀有な長命を保ったこと。


 二つ目はその一世紀近い生涯を懸けて築いた資産が、1000万円の夥しきに及んだことだ。


 現代の貨幣価値に換算して、まず200億は下らぬだろう。


 如何に原田が鴻池財閥の重鎮だとて、それだけで達成できる額ではない。


 大半は、個人的な高利貸しで生んだカネだ。


 この方面でも原田は比類なき記録をうち樹てている。ただの一度も借金を焦げ付かせなかったという、もはや人間業とも思われぬ、伝説的な記録を、だ。貸した金は、一文の例外も許さず悉皆回収しきってのけた。

 

 

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 その伝説を成り立たせた元種は、原田が決して「暴利」を取らず、あくまで「高利」の範囲内に自分を抑制しきったこと。


 それに加えて人物鑑識眼に優れ、借り手を厳選したことが挙げられるだろう。言うは易し、行うは難し。どちらも銀行家としての経歴を通して磨かれたものかと思われる。


 むろん、取り立ての手腕も物凄かった。


 こんな逸話が残されている。


 語り手は、ダイヤモンド社創業の雄、石山賢吉その人だ。

 


 氏が鴻池銀行の首脳者時代の事であった。
 岩下清周、鈴木藤三郎氏等の経営する日本醤油会社が、鴻池銀行から三百万円ばかり金を借りた。此の会社は後ちに破産したほどの会社だから、懐は苦しかった。然し、鴻池銀行からの借金は督促が厳しい為めに、遣り繰りをしながら返して行って、最後に四万円ばかり残った。それがどうしても返せない。それまでに、利息は可なり払って居る。それを払った残りの四万円だから、今暫く待って呉れるようにと、社長の岩下氏が原田氏にお百度詣りをして頼んだ。処が、原田氏は頑として肯かない。そこで、岩下氏はよんどころなく、時の総理大臣桂太郎氏に泣き付いた。(『金と人間』10~11頁)

 


 桂太郎長州閥の首領格。


 そして原田二郎を鴻池に引き込んだのは、やはり長州閥の大物の、井上馨の力に依るもの。今日の原田の威勢があるのは、いわば長州勢力の賜物で、この後ろ盾から攻めようとした岩下の戦略は至極真っ当なものだった。

 

 

Kiyochika Iwashita

Wikipediaより、岩下清周) 

 


 桂氏は、相手が原田だから、自分が言ってやったら、云ふ事を聞くだらうと思って引受けた。そして、
「僅かの金だから負けてやって呉れないか」
 と、原田氏に頼んだ。
 すると、原田氏は、
「僅かの金だから払ったらどうだ」
 と云って応じない。話上手の桂氏がそれから色々頼んだが、原田氏は何と云っても云ふ事をきかず、とうとう桂さんの懇談を物の美事に刎ね付けて了った。
 原田氏は銀行の貸金すら此の通りだった。況や、自分の貸金をや。(11頁)

 


 桂お得意のニコポンも、原田に対しては一向効力を発揮しなかったらしい。

 原田の詠んだ三十一文字みそひともじに、

 

ますらをの真心こめて一筋に
思ひいる矢のとほらざらめや


 というものがある。


 意志の強さを、如実に反映した詩だ。

 

 このような漢が容易に譲るはずもない。さしもの桂も、あまりに相手が悪すぎた。畢竟それに尽きるであろう。

 

 

11 KatsuraT

 (Wikipediaより、桂太郎

 


 一事が万事、原田はやることにそつ・・がなかった。


 前述した1000万円の私財についても、その中身を検めれば土地や株券は含まれず、それらに比べて価値の変動がずっと少ない――所謂「堅い」資産である社債・公債・現金のみで成り立っているという徹底ぶり。


 まこと結構ずくめな話のようだが、しかしここに重大な問題がただ一つ。


 後継者がいないのである。


 夫婦生活は円満だったが、子宝にだけは恵まれなかった。妻にもとうに先立たれ、原田二郎の晩年は、孤独の影がひどく色濃いものとなる。


 そのことと、原田積善会の設立は、決して無関係ではないだろう。


 なにせそのまま手を打たなくば、彼の遺産は自動的に国に没収、影も形もなくなる運命さだめだ。


(冗談ではない)


 想像するだに身を切られるような苦痛であった。

 

 

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 この1000万円は原田次郎の生きた証明、彼の人生そのものだ。どこの馬の骨とも知れぬ輩に、ぞんざいに扱われてなるものか。己が名前を千載の後まで伝えるような、有意な使われ方でなければ到底納得など出来ぬ。


(寄附でもするか)


 学校、病院、慈善事業と、引く手は数多と言っていい。


 が、これもよくよく考えると馬鹿げていた。

 


 今時の学校の卒業生は何になる。屁理屈を言ひながら、碌に働かないで、お金を沢山貰ふ事ばかり考へて居る。大切な財産を寄附して、斯う云ふ学校を発達させた処で、それが世の中の為めであるか、大なる疑問だ。
 医者だって、さうだ。病気を診断する医者はあっても、病気をなほす医者はない。せんじ詰めれば、彼等は医学遊戯の研究者だ。
 自分は生来虚弱で、医者から癒して貰った病気は一つもない。自分で自分に適した養生法を発見したればこそ、八十歳以上の長命を保ったのだ。無用の医学を発達させる為めに、寄附する金など一文もない。
 更に慈善事業に至っては、一層さうだ。あれは、なまけ者の養成所だ。(15~16頁)

 


 ありきたりな選択肢には悉く不満が残る。


 思案に思案を重ねた末に、ついに原田が見出したのが、自分の財産を法人化してしまう道だった。

 


 斯うすれば、自分の財産は其の儘保存される。人に勝手に遣はれるのは、其の財産が生む利息だけの事だ。これとても金の遣ひ方を知らない人の手に渡すのだから、余り好ましい事ではないが、元金を滅茶苦茶にされるより、優って居る。
 そう考へて原田氏が作った財団法人は、例の原田積善会である。(16~17頁)

 


 だからもし、原田二郎が子孫に恵まれ、その晩年が安泰だったら、果たして原田積善会なるものを発足させたか頗る怪しい。


 やったとしても、規模は相当縮小したのではあるまいか。

 数奇としかいいようがない。天はまったく、あじ・・な配剤をするものだ。

 

 

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明治九年の奇天烈訴訟 ―250年前の負債―

 

 時代そのものの転換期――社会の基盤未だ軟けき文明開化の昔時には、ときに思いもかけない人間の珍物が飛び出してきて、世間をアッと言わせたものだ。


 元田なおしも、そのうちの一人に数え入れていいだろう。

 

 

Naoshi Motoda, 5th director of the Aoyama Normal School

Wikipediaより、元田直) 

 


 明治九年、代言人――当時に於ける弁護士の称――をやっていた元田は、福島正則の子孫を名乗る福島正成なる男と出逢い、相携えて奇想天外な訴訟を起こす。


 福島のお家が取り潰しになる以前、諸大名に貸し付けていた莫大な金子を取り立てようという訴訟を、だ。


 真っ先に標的にされたのは、土井大炊頭が末裔、土井利興。維新後子爵に叙せられて、皇室の藩屏の一翼を担う栄誉をかたじけなくしていた彼にとっては、まったく寝耳に水の騒ぎであったに違いない。


 元田は寛永二年付けの古文書を「証拠品」として提出し、そこに記されている大判六百枚と小判二万数千枚を、耳を揃えて返したまえと鼻息荒く攻め立ててくる。


(冗談ではない、馬鹿も休み休み言え)


 250年以上もむかしの紙切れ一枚ごときのために、なんだって尻の毛まで毟られるような憂き目を見ねばならぬのか。

 

 

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 もう少し時代が下れば諸々の制度が整って、「時効」という概念も顔を出し、こんな訴えは請求の段階で撥ねつけられたことだろう。


 しかし元田は、時代の隙をうまく衝いた。


 おそらく、確信犯であったろう。太政官政府に在っては箕作麟祥と肩を並べてフランス民法の研究に勤しみ、その一方で神田に法学塾を開設し、これまたフランス法の講義に余念がなかった元田のことだ。時効制度に無智であったとは考え難く、遠からずして我が国にも導入されると見越した上で、


 ――やるのならば、今しかない。


 冷静に算盤を弾いた気配が強い。


 とまれ、法廷で元田はよく闘った。


 三寸不爛の舌頭を縦横無尽に動かして、触れればぱっと血の飛びそうな鋭利な論理を次から次へと連続発射、敵方・・の心胆をさんざ寒からしめたという。


 このとき裁判長を務めていたのは、後の男爵松岡康毅


 拷問制度の廃止に大きく寄与したこの人は、前古未曾有にもほどがある訴訟内容にだいぶ面食らいつつも、その常識的な性情をみごとに発揮し、


「理屈はどうあれ、突飛に過ぎ、到底採用すべきでない」


 と、至極真っ当な裁定を下す。

 

 

MATSUOKA Yasutake

 (Wikipediaより、松岡康毅)

 


 元田は敗れた。


 が、この男は気落ちしない。それどころか間髪入れず新たな古文書を引っ提げて、今度は酒井雅楽頭の子孫、酒井忠邦を向こうに回して同様の訴訟を開始している。


 これまた敗訴に終わるわけだが、それでもこの二件のために世間は湧くような騒ぎに包まれ、元田直の名前もまた極めて広く流布された。


 元田の目的が、もし最初から自己宣伝にあったなら、それは完璧に達成されたといって構うまい。


 当時の日本人にとり、「代言人」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは「元田直」の三文字こそであったろう。それほどまでにこの二単語は深く結びついていた。


 明治十三年、元田は東京代言人組合の初代会長に就任。


 また同時期、東京法学社の創立に力添えをした事実から、法政大学創立者の一人としても名を残している。

 

 

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Wikipediaより、法政大学)

 


 原内閣で初代鉄道大臣を務めた元田肇は、この男の養子であった。 

 

 

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女王の帰還 ―藤山勝彦の記録より―

 

 あるとき、船が難破した。


 英国籍の船だった。


 婦女子たちを誘導し、ボートを与え、沈みゆく船から避難させると、船員一同、甲板上に整列し、そのまま船と運命を共にした


「泳げと命じたいが、そうするとボートにつかまりたくなる者が出るかもしれない」


 という船長の言葉に従って、粛々と水底へ逝ったのだ。


 サミュエル・スマイルズ『自助論』中に引用している逸話である。

 

 

Samuel Smiles by Sir George Reid

 (Wikipediaより、サミュエル・スマイルズ

 


(まさか)


 このエピソードに触れたとき、果たして信じていいのかどうか、随分悩んだものだった。


 斯くの如き窮境に置かれた集団が最後まで統制を保つだなどと、ちょっと人間性の限界を超えてやしないか。後世から都合よく脚色というか美化された部分が、少なからずあるはずだ。……


 我ながら根性がひねくれている。


 が、ファーンボローの一件などを通じて英国人の国民性に触れるにつれて、


(あるいは?)


 あの連中ならやりかねないんじゃなかろうかという方向に、私の心は傾きつつある。


 大日本製糖株式会社副社長・藤山勝彦旅行記も、そうした私の「偏り」に一層の拍車をかけたものだろう。


 国際砂糖会議に出席するためロンドンへ飛んだ藤山は、折角の機会だ、歴史ある古都を堪能しなくば勿体ないと観光に於いても余念がなかった。


 その夜も彼はとある劇場を訪れて、十一時半の終演までたっぷり舞台を楽しんだ。


 外に出ると、小雨で大気が濡れている。


(ついていないな)


 うすら冷たい闇の中、水たまりを避けながらホテルへの帰路を辿っていると、その途中、バッキンガム宮殿へと続く大路で思わぬ光景に出くわした。


 人、人、人――道を埋め尽くす夥しい人間の群れである。

 

 

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(バッキンガム宮殿)

 


「この行列はなにごとだ」


 不審に思って、勝山は訊ねた。


「明日の午後三時に女王がこの道路を通られるので、みんな徹夜で待っているのだ」
「なに、三時――?」


 十五時間以上も先ではないか。


 ここで言う女王とは、むろんエリザベス2世のこと。2020年現在でも英連邦の元首として依然変わらず君臨している、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザーその人に他ならない。

 

 

Queen Elizabeth II on 3 June 2019

 (Wikipediaより、2019年のエリザベス女王

 


 冠を継いでそう間を置かず、彼女は旅路についている。


 英連邦を構成する諸国巡歴の旅路に、だ。藤山勝彦の訪英は、奇しくもその最終盤。ジブラルタルから軍艦に乗り、本国へ帰るその秋に、たまたまこの男は居合わせていた。


 幸運としかいいようがない。


 新聞は連日女王の記事で埋め尽くされ、「女王の時代は国が栄える」という古くからの言い伝えを当国人が如何に堅く信奉してるか、大いに啓蒙された藤山だったが、


(まさか、これほどの熱狂ぶりとは――)


 悪天候の中、徹宵してまでその帰還を待ちわびるとは、まだまだ甘く見ていたと痛感せざるを得なかった。

 


 さて、その翌日、帰航した軍艦からヨットに移られ、テムズ河をさか上り、ウェストミンスターに上陸されたわけだが、河岸は勿論、道路は昨夜からの群衆でいっぱい、うしろの方の人は、とても女王のお顔は拝めないが、それでも前の人の頭越しに手を振り、お疲れで少し痩せられてはいるが、御無事で帰って来られたのを祝し、あの冷静なイギリス人が人目をはばからず、抱き合って泣いてよろこんでいた。(『財人随想』297頁)

 

 

Elizabeth and Philip 1953

 (Wikipediaより、戴冠時の女王夫妻)

 


 左様、あの冷静なイギリス人が。


 目の前で戦闘機が墜落し、30名弱の死人が出ても決してパニックに陥らず、早山洪二郎をして心の底から驚嘆せしめた鈍重・無神経な国民が、こと王室に限ってはどうであろう。


 畳針を突き立てられてもビクともしない分厚い面皮を髪の根まで朱に染めて、ほとんど幼児に戻ったように明け透けに、身も世もなく熱涙をこぼして感泣するのだ。およそ不合理極まりないが、こういう損得勘定だけでは割り切れないある種の前時代性を濃厚に残していればこそ、
 陰険で、
 腹黒で、
 舌を三十枚も持ち、
 自分たちの利益のためなら世界をどれほど混乱させても頓着しない、
 エゴイズムの権化のような集団だと揶揄されながらも、
 どこか憎みきれない、妙な尊敬を向けられもする、彼らならでは・・・・の立ち位置を国際場裡に確保することが出来たのではなかろうか。


(なんという差だ)


 藤山勝彦はまた一方で、わが国に於ける皇室の扱いを思い出し、眼前の光景と密かに比べ、暗澹たる思いに憑かれてもいる。


 先の引用は、こう続くのだ。

 


 こうした事実を見ても、イギリス人が、皇室を中心とした生活態度を、今も昔も変わらず持ちつづけているかという事がわかるであろう。
 日本も皇室中心という点で、イギリス人と共通しているようにいわれるが、敗戦後の変りようはあまりにはげしく、現在ではとうてい共通点は見出せない。(同上)

 


 思い返せは、本書が出版された昭和三十年といえば、新左翼運動華やかで、マルクス教の信者どもがそのお題目たる暴力革命実現に向け、いよいよボルテージを上げていたころ。


 アカにとっては天皇制など当然踏みつぶしてゆくべきもので、そのアジテーションを誰憚りなくぶちまくっている以上、なるほど確かに英国との共通点を見出すことなど不可能だったに違いない。

 

 

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 大日本製糖はやがて明治製糖と合併し、大日本明治製糖と改称。三菱グループの傘下に入り、現在まで続いている。

 

 

 

 

 


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大震災で失われたもの ―警視庁刑事参考館―


 関東大震災は実に多くの物を奪っていった。


 大正十二年九月一日を境とし、帝都の情景は文字通り一変したのである。火災旋風を形容するに当事者たちは「呪いの火雲」と呼んだりしたが、これはまったく実感に即した表現だろう。濛々とたちこめる黒煙の下、熱と叫喚に追いまくられる心境は、想像するに余りある。


 やがて被害の全貌が、徐々に明らかになるにつれ。


 一部奇矯な好事家たちは顔を覆って、盛大に嘆かざるを得なかった。――まさか日比谷の警視庁まで、全焼の憂き目に遭っていたとは。

 

 

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(「大正大震災大火災」より、炎上する警視庁)

 


 彼らに涙をしぼらせたのは、この赤レンガ造りの建物の隅にうずくまるようにして存在していた、刑事参考館の焼失である。


 犯罪にまつわる様々な物品が蒐集された、当時に於いて日本唯一の刑事博物館。そこには大久保利通を切り裂いた島田一郎の日本刀をはじめとし、「稲妻強盗」坂本慶次郎愛用の凶器等々、実際の犯行に使われた幾百振りの大小刀剣が保存され、およそ他に類のない異様な雰囲気を醸し出していたという。


 撮影技術の進歩に伴い、明治の中ごろあたりからは写真も増えた。


 逮捕された兇賊のふてぶてしい面構え、気の弱い者なら一瞥しただけで失神しそうな、凄惨極まりない現場写真――。


 そんな物品がさも無造作に、うず高く積まれていたわけだ。

 

 

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 左様、無造作に積まれていた。


 実は当時の警視庁には刑事参考館をまともに運営しようという気概もビジョンもまるでなく、博物館というよりこれを一個の物置視して、学術的な配列もせず、運び込んでは適当に転がしておくだけというのが実状であった。


 一般公開もしておらず、訪客といえばせいぜい物好きな貴族院のお偉方程度のものなので、敢えて顧みる必要もなかったらしい。


「馬鹿げている。文化的損失もいいところだ」


 見るに見かねた司法省が苦言を呈した。


「帝室博物館のように、あるいは逓信博物館のように。この種の事業は趣味を以って献身的に努力する人材を主任に据えねば、到底うまく回らぬものだ。どうも連中はその辺を、欠片も理解しておらぬ」


 そう言って管理権を我が方へと移譲さすべく動きもしたが、成果が実るより先に関東大震災が起きてしまった。


 炎にしてみれば格好の燃料もいいところである。ほんの一部を除いて、その悉くが烏有に帰した。


 好事家どもが歯ぎしりするほど悔しがるのも無理はなかろう。いわく・・・憑きの品に惹かれる心というのは、そのいわく・・・が禍々しいものであればあるほど、いよいよ強くなるものだ。そうした眼で視るならば、警視庁刑事参考館は竜宮にも勝る宝の山に相違なかった。


 その宝の山が、瓦礫の山と化している。


 しおたれるのも道理であろう。

 

 

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 のち、焼け跡から回収された品の一つに、島田一郎の日本刀が含まれている。


 なんの因果か、紀尾井坂の変を惹き起こしたこの兇刃は大震災の猛火にも耐え、今なお警視庁の一室で、昏く輝き続けているのだ。

 

 

帝都復興の時代 - 関東大震災以後 (中公文庫)

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ファーンボローの日本人 ―1952年の惨事―

 

 人はときに思いもかけず、歴史の見届け人となる。


 昭和石油株式会社社長、早山はやま洪二郎がそうだった。1952年、ロイヤル・ダッチ・シェル・グループの招聘を受けイギリスへと出立したとき、この人はまさか、自分が国史上稀にみる墜落事故の現場に居合わせる破目になろうとは、それこそ夢にも思わなかったに違いない。


 それはファーンボロー国際航空ショーで発生した事故だった。

 

 

Farnborough2006-1

 (Wikipediaより、ファーンボロー国際航空ショー)

 


 1920年に端を発し、1942年以降は偶数年の定期開催が決められて、つい2年前の2018年にも第51回目が営まれた、伝統あるこの行事。世界最大規模の航空機の見本市に、しかし早山は、さして乗り気ではなかったという。


 ――技術者でもない、このおれが。


 別に乗り込むでもなしに、ただ飛行機が飛ぶのを眺めて、何の面白味があるであろうか。ただ首が疲れるだけのことではないか。


(しかし、この客の入りようは凄いな)


 うすら寒い土曜日の午後、会場に詰めかけた観衆の数は実に20万人に届いたという。


 最新式のジェット機よりも、彼らの熱狂ぶりこそが、早山の興味をむしろ唆った。自分が思っていたよりも遥かに強い勢いで、航空業は発達しそうだ――。


 物思いに耽る早山の頭上で、ついに運命の機体が姿を現す。

 
 型番はDH.110

 

 

Sea Vixen of 892 NAS on USS Forrestal (CVA-59) c1962

 (Wikipediaより、シービクセンFAW.1)

 

 

雌狐ビクセンの名を与えられたこの戦闘機は雲間から矢のように駆け下りて、双胴の機体をスマートに回転させながら、再び上昇軌道に転じゆく。


 大観衆が見上げる空を大きく縁取り、飛行場の真上にさしかかった瞬間だった。突如としてビクセンから異様な爆発音が鳴り響き、何か黒い塊が二つばかり放たれる。


(あっ)


 と息を呑んでる暇もなく、今度は尾翼が千切れ飛ぶ。

 明らかな空中分解の模様であった。


(こ、これはいかぬ)


 先に飛び出した「何か黒い塊」は、ぐんぐんこちら――観客席へ近付いてくる。


 ある時点から、早山はその正体を看破していた。


(エンジンだ)


 ビクセンのジェット・エンジンが、さながら隕石か何かのように、物凄い勢いで宙を飛ぶ。


 早山は思わず首をすくめた。


 その頭上、ほんの30メートルぽっちのところをエンジンが通過。


 一拍置いて、100メートル後方の小高い丘に激突し、砂煙と、轟音と、そして何より肉片を、四方八方に飛散せしめた。群衆は、そこにもギッシリ身を寄せ合って、空を眺めていたのである。

 

 

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 すし詰めだったといっていい。そのことは、29名という死者数が何よりも雄弁に証明している。

 


 ハッとわれに帰ったときには、場内は死の如き静寂である。エンジンの落ちたあたりに薄い煙があがっている。二十万人の眼はその一点に集中している。しかし、二十万人の足は動かない。やがてささやきにも似たざわめきがおこり、気がついてみると側にいる婦人達が青くなって倒れたり、しくしく泣き出したりしている。現場には救急車とトラックがかけつけて救助に当たっている。よくは見えないが、機敏にそして整然とはかどっているらしい。動いているものはそれだけであって、観衆は飽くまでじっとしていて動かない。(『財人随想』267~268頁)

 


 絹を裂くような悲鳴、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う人々――。


 フィクションにありがちなそれらの要素は、この場に皆無であったという。

 

 

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 現実が、虚構を超越した。これこそジョンブルの面目躍如、牛のような糞落ち着きっぷりに他ならない。


 やがて場内アナウンスが、いとも荘重に木霊した。

 


「まことに遺憾なことである、尊き犠牲となられた方々に対し謹んで哀悼を捧げる、しかし我々の航空機発達の蔭には、かかる尊き犠牲を幾度か経験して来ている。今日のショウはこのことの為に中止することなく、残りの行事をやがて再開するであろう」(268頁)

 


 その言葉通り、たった30分後にはもうプログラムが再開されて、人々は当日の目玉であった四発ジェット爆撃機に歓呼の声を上げていた。


(なんということだ)


 感動すべきか戦慄すべきか、己の心を持て余しかける早山であった。


 ビクセンの墜落による被害たるや尋常一様の域でない。繰り言になるが、死者だけでも29名、負傷者に至ってはその倍以上――。


 にも拘らず、この切り替えの早さたるやどうであろう。不屈どころの騒ぎではない。ナチスドイツの度重なる空襲にもへこたれず、この民族が第二次世界大戦を戦い抜けた根幹・・を、鼻先に突き付けられた気分であった。

 

 

LondonBombedWWII full

 (Wikipediaより、空襲を受けたロンドン)

 


 なお、この事故を受けファーンボロー国際航空ショーは安全基準を厳格化。


 英空軍はビクセンの配備予定をキャンセルし、代わりにジャベリンの導入を決めている。

 

 

  

 

 


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鴻之舞金山と中村文夫 ―草創期の記憶―

 

 北海道オホーツク海沿岸部の原生林が燃えだしたのは大正元年のことである。

 

 

北見神威岬 神威岬公園 よりP6260503

 (Wikipediaより、北見神威岬オホーツク海

 


 なにぶん、108年も前の話だ。当時の消火能力などたか・・が知れている。一度広がってしまった山火事は容易に消えず、消えるどころか実に四年近くに亘って燃え続けたというのだから凄まじい。


 本州ではとてものこと起こり得ない、「試される大地」ならではの現象だろう。


 大地に黒々と刻印された傷痕は、見るからに痛ましい眺めであった。


 が、話はこれで終らない。


 災害は恵みを齎しもした。焼け跡に、金鉱の露頭が認められたのだ。


 たちまち土地の有力者が2万円ほど出資して金山の経営を開始した。佐渡・菱刈に続く大鉱脈、鴻之舞金山の始まりである。

 

 

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 が、出だしは決して順調とは言い得ない。この程度の投資では、とても満足のいく結果を絞り出すことは叶わなかった。桁が不足していたのだ、残念ながら。


 ――わしでは無理か。


 持て余した所有者は、やがてこの金山を売りに出す。


 たちまち買い手が殺到した。


 久原鉱業、藤田組、古河鉱業、他にも他にも――名の知れた財閥が次から次へと手を挙げて、結局競売という形に至る。


 入札を制したのは住友だった。当初50万を予定していたのが、直前で久原が80万で狙っているとの情報を掴み、急遽吊り上げ90万での獲得劇。


 もとより住友財閥は、別子銅山を中心として発達してきた過去がある。伸銅所が住友金属になり、電線工場が住友電工になるといった具合に、だ。


 鉱山への執着が一入ひとしおなのも頷けよう。


 おまけにこの時期、その大事な大事な――ほとんど聖地といっていい――別子銅山が臨終間際の危地にある。開鉱から260年以上も過ぎているのだ、衰えない方がむしろおかしい。

 

 

Besshi copper mine

 (Wikipediaより、戦前の別子銅山

 


 この事態を受け、当代住友吉左衛門はかねてより、別子に代わる有望な鉱山を模索していた。幸いにして、鴻之舞は掘り出す術さえ持っているなら文字通り、宝の山として機能しそうだ。


「渡りに船よ、是が非でも獲れ。――」


 90万の背景には、そういう事情があったのである。


 さて、斯くして手に入れた鴻之舞が本格的に稼働するのは、大正七年の暮れあたりから。


 責任者は、中村文夫なる男。


 後に日本板硝子株式会社の頂点に立ち、日本の板硝子工業を世界的水準まで引っ張り上げた功労者も、この時はまだ28歳の一青年に過ぎなかった。

 

 

Nippon Sheet Glass logo

Wikipediaより、日本板硝子ロゴ) 

 


 鴻之舞に派遣されるまで中村は、総本店の用度課に居り、同金山で使用する発電機だの何だのと、諸々の設備調達を担当したいきがかりから、


「ちょうどいい、お前そのまま全部やれ」


 さも無造作に辞令を受けたそうである。


 大らかというか適当というか、時代意識を濃く反映したしざま・・・であろう。


 ここから先、金山に於ける仕事と生活の実景は、本人の筆をそっくりそのまま拝借したい。ちょっと長いが、読み進めるうち自然と当時の喧騒が瞼に浮ぶ、至って秀逸な文章である。

 


 当時の鴻舞は開発されたばかりで、周囲は針葉樹の原始林で半年は雪にとざされ、出逢うのは熊ばかりである。そこに精錬所をたて、人の住む町をつくって行くのであった。町といっても、金山に働らく者ばかりである。自然事務長の私が、村長のような形になり、立法、司法、行政を全部一人で司るということになった。何事も自分の操業所内のことで、私が種々の規則をつくった。荒っぽい、そして独身者の鉱夫が多いために、人殺しや姦通が時々おこった。そういうのは鉱山に来ている請願巡査とともに、私が裁いたものである。私自身もまだ独身だったので、困ったものだった。大正九年十月一日には、第一回の国勢調査があったが、私はその委員をやった。そこに私は前後四年いた。(昭和三十年刊行『財人随想』250頁)

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20200805172951j:plain

 


 資源を目当てに鉱夫が集まり、更にその鉱夫をターゲットとして多種多様な商人どもが詰めかける。


 鉱山集落の成立過程、その典型的な在り様だといっていい。


 中村は、さぞ楽しかったと思うのだ。


 何事につけ、草創期とは良いものである。ましてやそれが、将来に多大な希望を抱ける事業ならば猶のこと。骨折り甲斐があるというものではなかろうか。

 


 そういう山の中で雪に埋もれて創業の苦難をなめたが、三年、四年とたつうちに漸く黒字を計上するようになった。これは将来、日本一の金山になりそうだぞ、と自信を得るようになった。事実、後に日本一の金山になった。(同上)

 


 鴻之舞の年間金産出量が最高記録を達成したのは昭和三十年のこと、2.98トンという数字を叩き出している。


 かの有名な佐渡金山でも年度あたりの最高記録は1.5トン――昭和十五年のこと――に過ぎないから、どれほどの偉業かよく分かるだろう。


 1973年の閉山までに鴻之舞から汲み上げられた総量は、金72.6トン、銀1234トンに達する。


 再び佐渡を引き合いに出すと、388年を通して掘り出された総量は、金78トンに銀2300トン


 及ばずとても、鴻之舞はいい勝負をした。


 今日こんにちではそんな栄華も露と消え、かつてを偲ぶ遺構も徐々に、朽ちて形を失いつつある。

 

 

f:id:Sanguine-vigore:20200805173134j:plain

Wikipediaより、鉱山があったことを示す石碑)

 


 北海道では珍しくない光景だ。2007年に財政破綻した夕張も、半世紀前は人口11万を数える大都市だった。


 栄枯盛衰、千変万化。試される大地に吹く風は、どこか物悲しい色がある。

 

 

 

 

  


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第二次ボーア戦争奇譚 ―マキャベリズムの権化ども―

 

 ボーア戦争に先駆けて、ランズダウン卿が行った演説ほど世間を呆れさせたものはない。


 イングランド中部、シェフィールドの地に於いて、彼はこう呼びかけたのだ。


トランスヴァール共和国の失政の内、インド人に対する待遇以上に、余をして公憤を感ぜしむるものはない。哀れなるインド人たちが彼の地を追われ、母国へ引き揚げてゆくのを知りながら、英国がこれを看過して、南アフリカの一小国の不正をも矯正するの力なきことを暴露するとき、そのインド人に与える影響は、果たして如何なるものと諸君は思うか」

 

 

LocationZARca1890

 (Wikipediaより、トランスヴァール共和国の位置)

 


 なるほど確かにトランスヴァール共和国――ボーア人南アフリカにうち樹てた彼の国で、インド人たちは大変な不遇をかこっている。


トランスヴァールに於いて我らは土地を所有することを得ず、特定区域以外に居住することも許されず、ヨハネスブルグ及びプレトリアでは公然歩道を歩むことが出来ず、夜九時以降は外出することも出来ぬ。旅行には旅行免状を要し、汽車には一二等に乗ることが許されて居らぬ」


 マハトマ・ガンジー、1896年10月26日、マドラスに於ける演説からの抜粋である。


 トランスヴァールで弁護士業を営んでいた経験を持つガンジーだ。その言葉には一定の信頼を置いて構わない。

 

 

Gandhi South-Africa

 (Wikipediaより、南アフリカ時代のガンジー

 


 ボーア人たちは明らかに潔白ではないだろう。金鉱が発見されて以来、雪崩を打って押し寄せる外国人労働者により様々な問題が惹起され、国民感情をいたく傷付けたにしても、これは少々度が過ぎていた。


 ランズダウン卿の言葉は正義と人道を重んじる文明国の紳士として模範的といっていい――彼らイギリス人がナタールで、ボーア人以上の苛烈さでインド人排斥に取り組んでさえいなかったなら。


 ――どの口がほざくか。


 お前らだけには言われたくない、とトランスヴァール共和国は怒鳴り返してやりたかったろう。
 なんとなれば、


 土地財産の所有を禁じ、
 入国時に登録税を課し、
 居住は政府特定の区域に限るといえど、


 兎にも角にもトランスヴァールはインド人の入国自体は認めているのだ。


 それがイギリスはどうであろう。まさに同時期、ナタール法などという不気味な代物を設置して、


Ⅰ 官吏の要求により、ある種ヨーロッパの言語を以って移住願書をしたたむること能わざる者
Ⅱ 貧民、若しくは公費の負担となるべき虞れのある者
Ⅲ 白痴または瘋癲者
Ⅳ 悪性、若しくは危険性の流行病、若しくは伝染病を患える者
Ⅴ 到着前二年以内に、国事犯にあらざる罪を犯せる者
Ⅵ 醜業婦及び他人の醜業によりて生計を営む者


 これらの条項に一つでも引っ掛かった輩を、ドシドシ門前払いにしているではないか。


 更に言うなら、これで弾かれたインド人が、ならばとばかりに爪先を転じてトランスヴァールを目指すケースも数多い。

 

 

Johannesburg, South Africa (1896)

 (Wikipediaより、1896年のヨハネスブルク

 


 ――いったいお前らに「公憤」を感ずる資格があるのか。


 まともな神経の持ち主ならば、そう思って当然だ。


 が、イギリス人にとって正気など、必要な時だけクローゼットから取り出して身に着ければいい、装飾品とさして変わらぬ存在らしい。1899年10月12日、彼らは平然と宣戦を布告、第二次ボーア戦争の幕が開いた。


 背景が背景であるだけに、この戦いにはインド人たちも一方ならぬ貢献をした。前述のマハトマ・ガンジーも、2000人のインド人を糾合、衛生隊を組織して英軍のために尽力している。


 戦前15000人のインド人がトランスヴァールに在ったのが、戦後の統計では12000人まで減少していたというから、流された血は決して些少の域でない。


 そんな彼らに、勝利者たるイギリス人は何を以って報いたか?


 むろん、ボーア人以上の弾圧である。

 

 

1904 worlds fair boer war program

 (Wikipediaより、第二次ボーア戦争

 


 1903年には保安条例が制定され、インド人の入国を厳重に制限。その翌年には反インド人国民会議なるおどろおどろしい名前の組織がプレトリアで産声を上げ、議会はインド人排斥を公然と決議。裁判に関して、「被告がインド人である場合、判決には必ずしも証拠を要せず」と規定されたとんでもない修正案が可決したのは、1906年のことだった。


 つまり待遇改善を期待して立ち上がったインド人は、それによって猶更ひどい窮境へ自らを追い込んだことになる。この摩訶不思議な現象は、


「インド人はパンを求めて石を投げつけられた」


 と、当時の国際社会に於いて恰好の皮肉の材料となった。


 が、当人たちにしてみれば、とても笑いごとでは済まされない。


 ――こんな馬鹿な話があるか。


 怒髪天を衝かなければ、そいつはもう人間ではないだろう。


 事実、人間としての尊厳が脅かされている事態である。イギリス人は必要な時だけ彼らをおだて・・・、希望をエサに散々働かせた挙句、用が済むなり一顧だにせず投げ棄てた。

 

 

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プレトリアの街と記念碑)

 


 弊履に対してさえ、ここまで冷厳たる態度はとれまい。マキャベリズムの権化であろう。横紙破りの究極形、厚顔無恥とは彼らのために生れた言葉でなかろうか。


「かくの如き不可思議なる政府相手には、実に何事をも信頼する能わず」


 カウニッツは正しかったと言わざるを得ない。然るにこれほど没義道を踏み、世界中から猜疑の目を向けられて――それでもなお、英国は生き延びている。

 

 二度の世界大戦に於いても必ず勝者の席を占め、今日でもなお世界に対して一定の影響力を担保している。


 真に瞠目すべきはこの事実こそだ。これは決して偶然ではない。イギリスを学べば学ぶほど、善因善果、悪因悪果など嘘っ八だと痛感される。


 国際社会で生き残るために必要なのは畢竟権謀術数の手腕であって、情義も誠意も、それを構成する材料の一つに過ぎないのだろう。

 

 

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(現在のヨハネスブルク

 


 トランスヴァールは1910年、南アフリカ連邦の一部として組み込まれた。


 英国は当時に於ける最大規模の産金地――実に世界総額の半分に相当――を適切に運営、自国の地盤をますます鞏固ならしめたという。

 

 

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