穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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鴻之舞金山と中村文夫 ―草創期の記憶―

 

 北海道オホーツク海沿岸部の原生林が燃えだしたのは大正元年のことである。

 

 

北見神威岬 神威岬公園 よりP6260503

 (Wikipediaより、北見神威岬オホーツク海

 


 なにぶん、108年も前の話だ。当時の消火能力などたか・・が知れている。一度広がってしまった山火事は容易に消えず、消えるどころか実に四年近くに亘って燃え続けたというのだから凄まじい。


 本州ではとてものこと起こり得ない、「試される大地」ならではの現象だろう。


 大地に黒々と刻印された傷痕は、見るからに痛ましい眺めであった。


 が、話はこれで終らない。


 災害は恵みを齎しもした。焼け跡に、金鉱の露頭が認められたのだ。


 たちまち土地の有力者が2万円ほど出資して金山の経営を開始した。佐渡・菱刈に続く大鉱脈、鴻之舞金山の始まりである。

 

 

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 が、出だしは決して順調とは言い得ない。この程度の投資では、とても満足のいく結果を絞り出すことは叶わなかった。桁が不足していたのだ、残念ながら。


 ――わしでは無理か。


 持て余した所有者は、やがてこの金山を売りに出す。


 たちまち買い手が殺到した。


 久原鉱業、藤田組、古河鉱業、他にも他にも――名の知れた財閥が次から次へと手を挙げて、結局競売という形に至る。


 入札を制したのは住友だった。当初50万を予定していたのが、直前で久原が80万で狙っているとの情報を掴み、急遽吊り上げ90万での獲得劇。


 もとより住友財閥は、別子銅山を中心として発達してきた過去がある。伸銅所が住友金属になり、電線工場が住友電工になるといった具合に、だ。


 鉱山への執着が一入ひとしおなのも頷けよう。


 おまけにこの時期、その大事な大事な――ほとんど聖地といっていい――別子銅山が臨終間際の危地にある。開鉱から260年以上も過ぎているのだ、衰えない方がむしろおかしい。

 

 

Besshi copper mine

 (Wikipediaより、戦前の別子銅山

 


 この事態を受け、当代住友吉左衛門はかねてより、別子に代わる有望な鉱山を模索していた。幸いにして、鴻之舞は掘り出す術さえ持っているなら文字通り、宝の山として機能しそうだ。


「渡りに船よ、是が非でも獲れ。――」


 90万の背景には、そういう事情があったのである。


 さて、斯くして手に入れた鴻之舞が本格的に稼働するのは、大正七年の暮れあたりから。


 責任者は、中村文夫なる男。


 後に日本板硝子株式会社の頂点に立ち、日本の板硝子工業を世界的水準まで引っ張り上げた功労者も、この時はまだ28歳の一青年に過ぎなかった。

 

 

Nippon Sheet Glass logo

Wikipediaより、日本板硝子ロゴ) 

 


 鴻之舞に派遣されるまで中村は、総本店の用度課に居り、同金山で使用する発電機だの何だのと、諸々の設備調達を担当したいきがかりから、


「ちょうどいい、お前そのまま全部やれ」


 さも無造作に辞令を受けたそうである。


 大らかというか適当というか、時代意識を濃く反映したしざま・・・であろう。


 ここから先、金山に於ける仕事と生活の実景は、本人の筆をそっくりそのまま拝借したい。ちょっと長いが、読み進めるうち自然と当時の喧騒が瞼に浮ぶ、至って秀逸な文章である。

 


 当時の鴻舞は開発されたばかりで、周囲は針葉樹の原始林で半年は雪にとざされ、出逢うのは熊ばかりである。そこに精錬所をたて、人の住む町をつくって行くのであった。町といっても、金山に働らく者ばかりである。自然事務長の私が、村長のような形になり、立法、司法、行政を全部一人で司るということになった。何事も自分の操業所内のことで、私が種々の規則をつくった。荒っぽい、そして独身者の鉱夫が多いために、人殺しや姦通が時々おこった。そういうのは鉱山に来ている請願巡査とともに、私が裁いたものである。私自身もまだ独身だったので、困ったものだった。大正九年十月一日には、第一回の国勢調査があったが、私はその委員をやった。そこに私は前後四年いた。(昭和三十年刊行『財人随想』250頁)

 

 

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 資源を目当てに鉱夫が集まり、更にその鉱夫をターゲットとして多種多様な商人どもが詰めかける。


 鉱山集落の成立過程、その典型的な在り様だといっていい。


 中村は、さぞ楽しかったと思うのだ。


 何事につけ、草創期とは良いものである。ましてやそれが、将来に多大な希望を抱ける事業ならば猶のこと。骨折り甲斐があるというものではなかろうか。

 


 そういう山の中で雪に埋もれて創業の苦難をなめたが、三年、四年とたつうちに漸く黒字を計上するようになった。これは将来、日本一の金山になりそうだぞ、と自信を得るようになった。事実、後に日本一の金山になった。(同上)

 


 鴻之舞の年間金産出量が最高記録を達成したのは昭和三十年のこと、2.98トンという数字を叩き出している。


 かの有名な佐渡金山でも年度あたりの最高記録は1.5トン――昭和十五年のこと――に過ぎないから、どれほどの偉業かよく分かるだろう。


 1973年の閉山までに鴻之舞から汲み上げられた総量は、金72.6トン、銀1234トンに達する。


 再び佐渡を引き合いに出すと、388年を通して掘り出された総量は、金78トンに銀2300トン


 及ばずとても、鴻之舞はいい勝負をした。


 今日こんにちではそんな栄華も露と消え、かつてを偲ぶ遺構も徐々に、朽ちて形を失いつつある。

 

 

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Wikipediaより、鉱山があったことを示す石碑)

 


 北海道では珍しくない光景だ。2007年に財政破綻した夕張も、半世紀前は人口11万を数える大都市だった。


 栄枯盛衰、千変万化。試される大地に吹く風は、どこか物悲しい色がある。

 

 

 

 

  


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