穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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イギリスの移民排斥術 ―白濠主義を支えたもの―

 

 同じ移民排斥にしても、アメリカとイギリスでは遣り口が違う。後者の方が仕掛けに凝って、狡猾だ。


 玄人芸といっていい。


 1901年、オーストラリア初代首相、エドモンド・バートンの治下に於いて制定された移民法案がいい例だ。彼らはこの法案中で、「ヨーロッパの言語で以って、50語の章句を書き取り、且つ署名し能わざるもの」の移民願いを認めないと決めている。

 

 

Edmund Barton

 (Wikipediaより、エドモンド・バートン)

 


 一見、至極真っ当な態度であろう。


 英語圏たるオーストラリアで働きたいのに、英語が喋れないなど論外だ。意思疎通が図れぬ相手に、責任ある仕事を任せたがる馬鹿もない。治安悪化を予防する上でも、これぐらいの規制はあって然るべきである。


 ところがどっこい、いざ海を渡った日本人移民は驚いた。彼らを迎えた書き取り試験は、その実英語どころではなく、ドイツ語やフランス語、ロシア語に、果てはラテン語という場合さえも存在したのだ。


 そう、条文に記されているのはあくまで「ヨーロッパの言語」であって、「英語」などとは一文字たりとも書かれていない。どの言語を指定するかは官吏の胸先三寸であり、「オーストラリアの公用語が英語なのだから、当然英語の書き取りだろう」などという常識的判断は、畢竟日本人の「勝手な先入観」に過ぎないのである。


 事前の勉強は、完膚なきまでに無駄になった。


 人々は失意に塗れ、元来た道を引っ返す以外に術がなかった。


 この手法は以前南アフリカナタール領からインド人を排斥するため植民大臣チェンバレンが編み出した、所謂ナタール法」に範を取ったものであり、どちらの地でも抜群の効果を発揮した。

 

 

Chamberlain

Wikipediaより、ジョゼフ・チェンバレン) 

 


 もっとも、日本人が唯々諾々と現状に甘んじていたわけではない。


 林董駐英公使は事をロンドンに持ち込んで、制限法は「排外攘夷の観念」からの産物であり、「ただ日濠間の親交及び通商関係に害を及ぼすに過ぎない」と主張。ランズダウン侯爵に宛てて正式な抗議も行っている。


 が、この鋭鋒をイギリスは、お得意ののらりくらりでやり過ごし、何ら実のある回答を与えなかった。結果、何が起こったか。昭和十八年に太平洋協会から出版された『濠洲の自然と社会』には、以下のように記されている。

 


 日本の国内感情は激昂した。著名な日本人の見解が集められて、濠洲で刊行されたが、これに依ると、白濠法は「人類に対する罪悪」であり、「侮辱的な法律」であった。然し、一層大きな国家的利益が民俗的自尊心に勝利を占めた。日本が英国との協調外交を考へついた途端に、濠洲への移住問題は影を潜め、それ以来何の風波も起らなかった。(257頁)

 


 そう、1901年といえば既に日露戦争へのカウントダウンが始まっている頃。


 これからロシアをぶん殴らねばならないときに、対英関係まで拗らせてどうするのか。有り体に言って、自殺行為以外のなにものでもない。大事の前の小事であった。それまでの激昂ぶりが嘘のように、日本の輿論は落ち着いた。

 

 

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 なんという美しい流れであろう。ひどい目に遭ったのは我らが先人に他ならないのに、思わず感嘆したくなる。悪辣さも、ここまで極まれば芸術的だ。かつての大英帝国は、本当に学ぶべき多くの要素に満ちている。

 

 

 

 

 


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夢路紀行抄 ―期限の束縛―

 

 夢を見た。


 迂闊千万な夢である。


 駅へと向かう道すがら、私のアタマに唐突に、ずっと昔に借りたまま部屋の隅っこに転がしっぱなしのDVDが浮かんだのである。

 

 

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(しまった)


 あわてて引っ返すことにした。


 が、先刻通過した際には影も形もなかった筈の抗議デモ隊が道を塞いで、容易に通行を許さない。


 何に対して抗議していたかは不明だが、やたらと平均年齢が高かったことと、


「あなたも実は老人なのかもしれませんよ」


 と声をかけられ、人体解剖図がデカデカと載ったビラを渡されたことだけは憶えている。


 やがて、自宅に着いた。


 さして手間をかけることなく、ちょっと家探しするだけで、目的の物は発見できた。積み上げられた本の合間に、埃を被って挟まっている。ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が混ざっていたのは憶えているが、他の作品は曖昧だ。レシートを検めると、返却期限、「6月6日」――。


(なんということだ)


 我ながらあさましいまでの動揺だった。


 夢の中では、ときに判断基準が滅茶苦茶に狂う。ひどく大袈裟な例えになるが、現実世界で親友を見殺しにしたとしても、あれほどの罪悪感を抱くかどうか。心臓が冷え、呼吸は浅く、力が抜けて腰に胴がめり込みかけた。


 とまれ、どの程度の延滞料を店に支払う破目になるのか確かめねばならないだろう。スマホを取り出し、検索しようと試みるも、何故か上手く文字を打てない。


 苛立ちを募らせている間に目が覚めた。「期限」というものに自分が如何に神経質か、思い知らせてくれる夢だった。

 

 

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ルール占領への序曲 ―逸るフランス、イギリスの老獪―

 

 これもまた、ヴェルサイユ条約が生んだカオスだろうか。


 ドイツ、ラインラント一帯に不穏の状あり。共産主義者が労働者を煽動し、エッセン、ドルトムントミュールハイム等々の諸都市で蜂起、同地を瞬く間に占領下に置いてしまった――1920年3月の「ルール蜂起」が勃発したとき。


 ドイツ政府は、軍を動かし事態の収拾を図ろうとした。


 当然の判断であったろう。赤軍の戦力はざっと50000人程度、大量の銃火器武装して、しかも第一次世界大戦の復員兵が数多く参加していると来た。事態はどう贔屓目に見ても、警察の対応能力を超えている。

 

 

Rote Ruhrarmee 1920

 (Wikipediaより、ドルトムント市街を警邏する赤軍兵士)

 


 が、ここで障害となる条件が一つ。


 該地方はヴェルサイユ条約の規定によって、紛れもないドイツ国内でありながら、しかしドイツ軍の立ち入りを禁ずる武装地帯と設定されていたのである。これが政府の対応を、著しく誓約した。進入許可を連合国に請求するも、事は容易く運ばない。


 ちょうどこの時期、パリでは列国間の大使会議が開かれている。


 その席に、フランスは早速この問題を持ち出した。首相ミルラン主張して曰く、


「ドイツは連合国の許可の有無に拘らず、兵を中立地帯に入れるに違いないから、連合国はこれに先立ちて同地方を占領すべきである」


 どうも彼はこれを機に、フランスの国境をライン西岸一帯まで拡張、国威燦たるナポレオン一世のあの頃を再現しようと計画していたようである。


 が、そうは問屋が卸さない。この件についてイギリスは、あくまで範囲をドイツ国内問題に止め、ドイツ自身の手で処理させようと考えていた。


 駐仏英大使エドワード・スタンリーはその方針をよく理解して、反対論の第一線を張り通し、梃子でも動かぬ構えを見せる。痺れを切らしたフランス側が、


ルール地方は出兵を必要とするほどに乱れてはいない。従ってドイツの派兵要求は疑うべき理由がある。しかしながら若し強いて出兵の要あらば、連合国に於いてこれに当たるべきである」


 わかったようなわからぬような、要領を得ぬことうわごと・・・・めいた発言をすると、エドワードすかさず、


「ルールが乱れていないなら、連合国も出兵の必要がないではないか」


 ずけりと突き込み、フランスの動きをいよいよ掣肘するに至った。

 

 

17th Earl of Derby

 (Wikipediaより、エドワード・スタンリー)

 


 日は進めども、何一つ決まらないまま会議は続く。


 堪らないのはドイツであった。これ以上手を拱いていようものなら赤軍はいよいよ増長し、騒ぎはルール地方に止まらず、その周辺へと更に更に波及する。そう、まるでドミノ倒しか何かのように――。


 万已む無しと覚悟を決めて、彼らはついに連合国の許可を得ぬまま軍をルールに突入させた。


 この展開を目の当たりにして、フランスは内心、躍り上がらんばかりに喜悦した。


 もっとも表面上は激怒を装い、ドイツの条約破りを厳しく批難し、


「我々はこの事態に鑑み、フランクフルト、ダルムシュタット、その他三都市を占領するの必要を見る」


 と勇ましく宣言。すべての反対を押し切って、声明の内容をたちどころに実現させた。

 

 

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ライン川

 


 腹の底から激怒したのはイギリスである。勢力均衡の信者たる彼らにとって、フランスのラインラント領有など到底認められる沙汰ではない。ドイツだろうがフランスだろうが誰であろうが、欧州に於いて最強国になることは、即ち英国の敵たることを意味するのだ。


 その原則に基づいて、彼らは早速行動を始めた。


「フランスの行動に対しては、何ら責任を分かつことが出来ぬ」


 と冷厳たる態度で報い、彼らの「軽挙」をきつく戒め、断々乎として責めの論調を打ったのである。


 フランスにしてみれば、当てが外れた。


 赤軍を駆逐し、事態が終熄してからも、


「ドイツが撤兵するまではここを去らない」


 と頑張り通し、占領を続けてはみたものの、苦し紛れに過ぎないであろう。ラインラント一帯に分離独立工作を施し、傀儡政権をでっち上げ、己が保護国とする華麗な夢は、ついに夢のまま空中楼閣と化し去ったのだ。


 フランスの失望ただならず、その失望がそっくりそのままイギリス憎しの怨嗟の声に変わるまで、そう時間はかからなかった。これ以降、両国間の感情は、1904年の英仏協商締結以来最悪の水準まで悪化する。

 

 

Entente Cordiale dancing

 (Wikipediaより、協商締結を記念する絵葉書)

  


 街には挙国一致的の対英プロパガンダが横溢し、議会に於いては


「英国はドイツの歓心を買い、フランスをして独りその怨みを受けしめんとするものである」


 と発言した代議士が喝采を浴び、更に転じて、


「これフランスがイギリスを棄て、他に依頼すべき国を求むるの必要を如実に証明したものである」


 との結論に達したというから、なんともはや凄まじい。


 歴史に名高いルール占領が起きたのは、これより僅か3年後、1923年のことだった。

 

 

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報復讃歌 ―福澤桃介と森下岩楠―

 

 世に愉快の種は数あれど、復讐に勝る悦びというのは稀だろう。


 奥歯が磨滅するほどに、憎みに憎んだ怨敵を、首尾よく討ち果たしたその瞬間。溜め込み続けた負の情念は一挙に炎上、快楽へと昇華され、中枢神経を直撃しては白熱化させ、眼球から火花が飛び散るような陶酔境に運び去る。そう、復讐とは気持ちいいのだ、絶対に。


 福澤桃介なども、その妙味を存分に堪能した一人であった。


 左様、福澤桃介。


 名字から連想するそのままに、福澤諭吉の息子である。


 といって、血は繋がっていない。


 養子である。


 慶應義塾在学中、諭吉の妻たるに見込まれ、ぜひ娘の婿にと懇望されたというから、よほど才気溌溂とした、目から鼻に抜けるような好青年であったのだろう。

 

 

Fukuzawa Momosuke young

 (Wikipediaより、青年時代の福澤桃介)

 


 一見怨みだの何だのと、その種の薄暗い感情とは無縁そうなこの人物が、意趣を抱いた相手は誰か。


 他でもない、同じ慶応義塾出身の、森下岩楠というのだから何ともふるっているではないか。


 事のあらましはこんな具合だ。桃介が経営していた「丸三商会」という貿易会社が、あるとき危機に陥った。


 それまでメインバンクと仰いでいた三井銀行の方針がにわかに変じ、融資を断たれたのが原因だ。至急、他に活路を求める必要がある。そこで桃介が目を付けたのが、とある外国資本であった。


 後年大井発電所建設のため、アメリカから金を引っ張ってきたことといい、桃介にはこのような、良く言えば国際人的な感覚がある。

 

 

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(大井川上流)

 


 が、丸三商会に関しては失敗した。融資を求められた外国人が東京興信所に福澤桃介の調査を依頼し、そしてその報告が、


「資産ゼロ、信用皆無、相場に手を出す危険人物」


 という、およそ考えられる限り最低の評価だったことが原因だ。


 この東京興信所を経営していたのが、他ならぬ森下岩楠だったのである。


 森下はもともと相場というものに強烈な胡散臭さを感ずる性質で、桃介がその世界にのめり込むのが気に喰わず、ためにこの仕事が舞い込んだとき、


 ――ここはひとつ痛い目を見せ、今後の教訓にしれくれようず。


 博奕まがいのよからぬ業から桃介をして足抜けさせる、絶好の機会に感じたらしい。


 当人が聞けば、余計な世話だと声を大にして叫んだだろう。


 実際問題、こんなことをされては堪らないのだ。森下の報告を受け取った結果、外国人は恐れをなして契約を打ち切り、丸三商会はぶっ潰れ、桃介は諭吉から大目玉を喰らわされ、本人自身恥辱のあまり、おれは福澤を名乗るに相応しくないと本気で考え、養子縁組を解消したいと喚き散らしたほどである。

 

 

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小泉癸巳男兜町取引所」)

 


 桃介は、偽善者ではない。彼はこの怨みを忘れなかった。虎視眈々と復讐の機会を窺い続け、そしてついに訪れたのが明治41年のこと。


 この年、洋行の機会に恵まれた森下のため、送別会が芝の三縁亭にて営まれている。必然、慶應義塾の出身者が数多顔を連ねる運びとなった。


 一座を代表して送別の辞を読み上げたのが、第3期卒業生の豊川良平岩崎弥太郎を従兄弟に持ち、その縁から三菱を支えた功労者だが、演説の才にはどうやら恵まれなかったらしい。


 内容は退屈、キレも悪く、そのくせいやに冗長で、皆あきらかに退屈し、ついに鎌田栄吉塾長と岡本貞烋がヒソヒソと、内緒話に耽りはじめた。


 その姿を見て、途端に良平は癇癪玉を爆発させた。


「苟も慶應義塾の塾長ともあろう者が人の演説中に話をするとは無礼であろうぞ」


 大声一喝、そう叱責したという。

 

 

TOYOKAWA Ryohei

 (Wikipediaより、豊川良平)

 


 内容自体は正当である。


 が、さんざん惰気を生じさせる演説をした上、その口ぶりが如何にも尊大で憎体であり、出席者の同情は良平よりも、鎌田の側に集約された。


 やがて良平の送別の辞が終了したとき、すっかり興を醒ました一座の中から、待ち兼ねたように屹立した者がある。


 彼こそ福澤桃介だった。


 怪訝な視線をものともせず、やおら桃介は語りはじめる。

 


「只今豊川さんはひどく鎌田塾長を叱られた。人の演説中に話をするなんて、如何にも不作法千万だが、正直に申上ぐれば、豊川さんも余り演説がお上手でない。下らぬ送別の辞を長々と聴かされると、誰でも退屈して内緒話がしたくなる。其の点本人一向反省にならないで、鎌田塾長ともあらう人を、大喝一声、叱り飛ばすとは、偉い御威勢だ、それと云ふのも豊川さんには三菱と云ふ背景があるからだらう。私はそれが羨ましい。斯く申す桃介は、何等の背景を持たない一介の書生である為めに、先年森下氏の興信所からひどい報告を受けた」

 


 さりげなく攻撃の矛先を良平から森下へと移行している。


 桃介にとっては、ここからこそが本番だった。積年の怨み、晴らすは今を措いてない。

 


「私が丸三商会と云ふものを経営して居た時、私は某外人と石炭の販売契約をしやうとした。すると、其の外人は興信所に向って私の信用を問ふた。其の時、森下氏の興信所は、資産零、信用皆無、相場をする危険人物と答へてやった。その為に外人は契約を中止する。銀行からは金融を止められる。私の丸三商会は破綻して、私は血を吐いて死なうとした」

 


 たいへんな送別会もあったものである。


 桃介、更に続けて曰く。

 


「私は爾来非常に発奮し、産を為し、此の不名誉を恢復しやうと努力した。幸に私は其の後相場に当り、満更の無資産でもなくなった。森下氏は相場を罪悪と心得て居らるるやうだが、天下相場をしないものが幾人あるか。東京興信所は財閥の御用ばかり勤めて居る。それで興信所の任務を果したものであるか。此の辺能く欧米の実況を視察してお帰りを願ひたい石山賢吉著『金と人間』146~147頁)

 

 

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(慶応大学)
 


 一連の演説を終えたとき、人々は拍手喝采して桃介のことを讃えたという。


 なんとも爽やかな復讐劇は、このようにして成就した。


 慶應義塾の門下生たる者、斯くあるべし。7年前の明治34年を砌に黄泉路へ着いた養父諭吉も、草葉の陰で莞爾としたに違いない。

 

 

二人の天馬 電力王桃介と女優貞奴

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死体の転がる東京で ―明治人たちの幼少期―

 

 維新回天の只中に幼年期を迎えた人々は、大抵その回顧録にて、東京の街なかにゴロゴロ転がる死体の姿を報告している。


 とりわけ有名なのは、やはり尾崎行雄のそれだろう。

 

 

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 この人は単に見た・・のではない。偶々視界に入ったとか、そんな受動的なものでなく、躾の一環として実の父から丹念な検分を強いられた。


「狼」と呼ばれた後の戦闘的性格からはちょっと想像しにくいが、子供のころの尾崎行雄は極端なまでに臆病な性質たちで、同年代の悪餓鬼どもから往来で石を投げつけられても拳どころか抗議の声さえ返すことなく、ただノソノソと歩き続けることしか出来ないという童であった。


 幕末、勤王の志士として家を飛び出し方々を駈け、幾度となく死線を潜った父親が、そんな息子の惰弱さに満足できよう筈もなく。


 ――根性を叩き直してやる。


 現代いまから見れば常軌を逸した、苛烈な教育に及んだわけだ。

 


 在学中の出来事として記憶に存するものは、殆ど一つも無いが、唯々首斬見物――罪人を殺す場合には、能く他の生徒と共に見物――に遣られたことがある。拷問見物――其当時裁判官が未だ行政官と分離されなかった為に、父は学務の外に裁判官のやうな仕事をもして居った。随って自らも拷問などをすることもあった。其時に窃かに私を拷問場の唐紙の蔭に呼んで、拷問する模様などを見せられた。(『尾崎行雄全集 第十巻』18頁)

 


 路傍に転がる割腹死体の検分も、そんな「躾」の一環だった。

 

 

Ishidaki

 (Wikipediaより、石抱)

 


 胆を練り、勇気を蓄え、優勝劣敗・弱肉強食が支配するこの浮世の荒波を、雄々しく漕ぎ渡っていって欲しい。切なる親心の発露であるのは間違いないが、当の咢堂にしてみれば、これほど迷惑なこともない。


 遠くから首斬りを眺めるだけでも胸がむかつき、血の気が引いて食欲の減退を来すのである。


 ましてや間近で、まじまじと、血と臓物とその他色々をぶちまけた凄惨な死に様を観察するなど、想像するだに卒倒しそうな沙汰ではないか。


(冗談じゃない)


 が、厭です私には出来ませんなどと口にしようものならば、たちどころに父親は仁王の化身に変性し、身の毛もよだつ折檻を我が身に強いることだろう。


 仕方なく、現場には行った。行ったが、極力死骸を視界の中に捉えないよう努力して、とにもかくにも「行った」という事実を以ってお茶を濁そうと企んだ。――それだけでももう既に、辺りに漂う異様な臭気が鼻を衝き、少年の繊細な神経をいたぶる、限界ギリギリの作業であったが。

 


 所が一緒に行った同じ位の年齢の子供はなかなかの剛胆ものと見へ、棒を以て腹の中を掻廻して居った。帰ってから其少年は褒められたが、私は大層叱られた。(19頁)

 


 この「豪胆な少年」型に属したであろう人物として、高田早苗が挙げられる。

 

 

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 大隈重信の同志であり、早稲田大学初代学長を務めたこの男は、その自伝たる『半峰昔ばなし』に於いて斯く述べた。

 


 皇政維新の年、即ち上野戦争の折り私は九歳で、それから後のことは多少記憶に残ってゐるけれども、其の以前の事は殆んど忘却して了った。上野の戦争は慶応四年五月十五日の出来事で、当日の騒ぎはよく覚えて居る。但し上野と深川とは大分隔って居るので、彰義隊の苦戦の光景なぞは目撃したのではない。唯だ其の前から世間が大分騒々しくなり、彼方此方で人が斬られたりした噂が伝はった。近所に然ういふ血腥い事が起ると、我々子供連は出かけて行って死骸を見物した事も二三度あった。(15頁)

 


 こちらは明らかに強制ではなく、みずから望んで、興味本位で駆けつけている。


 どうも当時の雰囲気を推察するに、半峰のこの反応こそ男児としてごく一般的なものであり、少数派に属するのはむしろ咢堂の方という観がある。


 ――同じ国土で、同じ言語を用いていても、時代が違えばこうまで常識の段階から異なるか。


 既往は遼遠にして遂うべきにあらじと雖も、湧き上がる感慨は抑えきれない。日本人も、思えば遠くまで来たものだ。

 

 

江戸東京透視図絵

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「二十年の停戦」へ ―続々々・ドイツ兵士の書簡撰集―

 

 1918年11月13日西部戦線の片隅で一人のドイツ軍人が自殺した。


 それも自己の掌握する部隊を率いて本国に帰還せよ、と命ぜられた直後の自殺であった。


 遡ること2日前、フランス、コンピエーニュの森に於いて、ドイツは連合国との間に休戦協定を締結している。既に戦闘は終熄したのだ。生きて故郷に帰れるというのに、いったい何故――?


 その疑念は、このオルグ・ブライトハウプトという29歳の若者が一ヶ月前、銃後に宛てて送った手紙を一読すればたちどころに氷解しよう。

 


 私たちは一八七〇年に我が軍が申し分ない凱旋を行った土地からあまり遠くないところにゐるのですが、今はどうでせう、私たちの政府は国民と国軍とを売らうとしてゐるではありませんか?! 全く字義通り売らうとしてゐるのです。ほんとにどうしてくれたらいいかわからない心持で、まさに喧々囂々たる有様です。私たちの胸の中には怒りと恥と絶望とがこんがらがってゐます。今日はヒンデンブルクから軍へ対して、自分を信頼してくれるやうにとの達しがありました。彼は皇帝によって任命された政府を支持する義務があるので、講和に賛成するといふのです。もうなんにもいひたくありません。結局かれが裏切者たちへ対してどうすることもできないといふ極めて明瞭な証拠なんです。(『最後の手紙』302頁)

 

 

Waffenstillstand gr

 (Wikipediaより、休戦協定締結の絵画)

 


 ゲオルグの手紙はこれ以降、


「いっそ部隊を率いてベルリンを襲い、すべての講和呼号者を逮捕・銃殺してやりたい」


 とか、


「こんな馬鹿な目に遭うために、私たちの四年間はあったのか」


 とか、どんどん過激さを増してゆき、ついにはとりとめもなくなってしまう。


 文章というより溢出する極彩色の感情をそのまま塗りたくったといってよく、こんな代物がよくもまあ、特に検閲を受けもせず配達されたものではないかと妙な感心が湧くほどだ。

 

 要するに彼は、あてつけに死んだ。

 

 

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(ドイツ凱旋門

 


 ゲオルグに限らず、本国政府の講和ムードに失望し、身を引き裂かんばかりの悲嘆に暮れた前線兵士は数多い。


 たとえばとある砲兵陣地の電信所に詰めていた、フリッツ・ホスフェルトなどはどうであろう。

 


 電信兵としていろいろな会話を聴き取ることのできるのは大変興味のあることですが、勿論その内容については厳重な黙秘義務が課せられてあります。ベルリンに於ける出来事もこの上ない緊張を以って見まもってゐます。この頃は領袖と呼ばれるやうな人々も混へて議員の内の多数の者は、無節操な和議提出といふことを幾度も繰り返して論じてゐるやうですが、この冷静な思慮を失った和平熱こそは、有識者階級の意思の力の萎縮、否むしろ政治的大罪であって、結局そのためにひどい償ひをしなければならないのは私たちだといふことになるのです! 勿論中にはかふいふ風潮に警告を発してゐる正しい識者も見受けられますが、しかしかうした真面目な人々のいふことは少しも聞かれてゐないやうです。今やドイツ国民はベルリナー・ターゲブラット紙に拠る非良心的なユダヤ人共に穢され且つ腐らせられてゐます。(247頁)

 


 これを書いているフリッツは、当節弱冠18歳。


「われわれは戦闘に勝ち、イギリス人は戦争に勝ってゐるのです。最後の決を与へるものは戦闘に於ける勝利ではなくて、何よりも先づ第一に国民の政治的成熟なのです」と総括したことといい、生きていたならさだめし優秀なナチス党員となったろう。

 

 

Flag of the NSDAP (1920–1945)

 (Wikipediaより、ナチス党旗)

 


 或いは極右テロ組織コンスルにでも参加して、ゲオルグが呼んだところの「裏切者」どもに血の報復を味わわせていたに違いない。


 ナチがあまりに有名過ぎてこちらの組織はずいぶんマイナーなきらいがあるが、決して見逃していい存在ではないだろう。ヴェルサイユ条約にドイツ首席全権として調印したマティアス・エルツベルガーは、まさにその「罪」のために彼らの手で暗殺されたし、「近代ドイツの生んだ最も理想主義型の賢明なる政治家」ヴァルター・ラーテナウもまた然り。


 戦後間もなく首相を務めたフィリップ・シャイデマンも標的にされ、あと一歩で同様の悲運に見舞われる寸前であった。


 コンスルが1919年から1922年の短期間中に殺害した人数は、実に354名の多きに及ぶ。


 その影響が少なかろう筈がない。

 

 

Bundesarchiv Bild 146-1989-072-16, Matthias Erzberger

 (Wikipediaより、マティアス・エルツベルガー)

 


 驚くべきことにこの集団は、ヒトラーさえも敵視した。


 彼らはナチス「西洋デモクラシーの手先でありドイツ民族の敵」と批難し、我々こそ真の第三帝国と主張、突撃隊をはじめとした各組織に浸透し、総統の首を執拗に狙い続けるに至っては、狂犬も極まれりというべきだろう。


 当時のドイツに渦巻いていた怨念は、想像の限界を遥かに上回って余りある。魔窟としかいいようがない、おそるべき狂奔の時代であった。

 

 

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迷信百科 ―火葬場の呪い―

 

 北越の都、長岡にはいわく・・・があった。


 ここには火葬場が一つしかない。


 伝統あるとは言い条、個人経営のくたびれた店で、炉に至っては骨董品といってよく、焼くのに大層難儀する。そのくせ料金は割高設定なのだから、住民としてはやってられまい。自然、


 ――いっそ市の方で、公営の火葬場を造ってくれれば。


 そんな方向へ思考が流れる。


 ところがどういう因縁か、そのことを公の場で持ち出すと、ほどなくしてその人物が死亡するのだ。二度三度と続くうち、いつしかこの話は鬼門になった。新潟版「将門の呪い」といっていい。

 

 

Nagaoka Omote-machi St

 (Wikipediaより、大正時代の長岡市

 


 死後の面倒を減らすため、自分の寿命を短縮してはたまらない。そんなこんなで、長岡市民は長いこと不便に甘んじ続けたわけだ。


 変革が齎されたのは、この地を故郷とする木村清三郎が市長に就いた昭和4年以後のこと。


 新聞社を経営し、衆議院議員を務めた過去すら有する人物だ。胆は十分以上に練られている。当然、呪いなど鼻で笑って、


「科学文明の爛漫たる昭和の御代に、かかる世迷言を通用させておくべきでない。わしの在任中に必ずケリをつけてやる」


 斯様に大言壮語した。


 が、いざやってみるとどうにもこうにも居心地が悪い。


 まるで不可視の怪物が常に背中におっかぶさって、その吐息を首筋に吹きかけられているような、得体のしれない不気味さがある。


(これはいかぬ)


 木村は焦った。

 

 

Kimura Seisaburo

 (Wikipediaより、木村清三郎)

 


 なんだかんだで彼も還暦を越えている。体の各所にガタが来て、若い頃には無視したであろう些細な不調もすわ大病の前触れかと動顛しがちな年齢だ。


 心気が揺らぎ、その揺らぎが彼をして、思わぬ儀式に奔らせる。


 なんとこの男は、生前葬をすることにした。


 死を偽装して呪いを誤魔化し、厄を祓おうとしたわけだ。


「あいつめ、迷信を脱出しようとして別の迷信に嵌りおった」


 そう言って苦笑したのは石山賢吉


 やはり新潟の出身で、ダイヤモンド社創業の雄たるこの人物が目撃した儀式当日の情景は、大方こんなものであったという。

 


「スッカリ本式さ。木村が白無垢を着て、死人になり済まし、寺の本堂に端座して、読経を受けたものぢゃ。それから会葬者が一同焼香して火葬場行きサ」
「火葬場も本式でしたか」
「其処も本式ぢゃった。本人が一旦釜の中へ入り、裏口から抜け出ると云ふ芸当をやったものぢゃ」
「滑稽でしたネ」
「滑稽と云へば、徹頭徹尾滑稽ぢゃった。こんな事をするから、此の世を浮世と云ふんぢゃよ。考へて見れば、総てがお茶番よ。特に木村の仮葬に限った訳ぢゃない。お葬式が済むと、アトは御馳走ぢゃ。是れは、本人が生れ変った誕生祭と云ふ訳さ。此の御馳走の場所が長岡会館と云ふカフェーだから振って居るぢゃないか」(昭和十年『金と人間』214~215頁)

 

 

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 日本で生前葬をやった人物としては、かなり若い番号を振られるであろう木村清三郎。


 彼が本当に・・・世を去ったのは、昭和16年2月16日のことである。


 これだけ間に開きがあれば、呪いと関連づけて勘繰る者も居なかったろう。現在でも長岡市には公営の火葬場が存在するが、それが木村の建てたものであるかどうかは判然としない。

 

 

 

 

 


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