時代そのものの転換期――社会の基盤未だ軟けき文明開化の昔時には、ときに思いもかけない人間の珍物が飛び出してきて、世間をアッと言わせたものだ。
元田
(Wikipediaより、元田直)
明治九年、代言人――当時に於ける弁護士の称――をやっていた元田は、福島正則の子孫を名乗る福島正成なる男と出逢い、相携えて奇想天外な訴訟を起こす。
福島のお家が取り潰しになる以前、諸大名に貸し付けていた莫大な金子を取り立てようという訴訟を、だ。
真っ先に標的にされたのは、土井大炊頭が末裔、土井利興。維新後子爵に叙せられて、皇室の藩屏の一翼を担う栄誉をかたじけなくしていた彼にとっては、まったく寝耳に水の騒ぎであったに違いない。
元田は寛永二年付けの古文書を「証拠品」として提出し、そこに記されている大判六百枚と小判二万数千枚を、耳を揃えて返したまえと鼻息荒く攻め立ててくる。
(冗談ではない、馬鹿も休み休み言え)
250年以上もむかしの紙切れ一枚ごときのために、なんだって尻の毛まで毟られるような憂き目を見ねばならぬのか。
もう少し時代が下れば諸々の制度が整って、「時効」という概念も顔を出し、こんな訴えは請求の段階で撥ねつけられたことだろう。
しかし元田は、時代の隙をうまく衝いた。
おそらく、確信犯であったろう。太政官政府に在っては箕作麟祥と肩を並べてフランス民法の研究に勤しみ、その一方で神田に法学塾を開設し、これまたフランス法の講義に余念がなかった元田のことだ。時効制度に無智であったとは考え難く、遠からずして我が国にも導入されると見越した上で、
――やるのならば、今しかない。
冷静に算盤を弾いた気配が強い。
とまれ、法廷で元田はよく闘った。
三寸不爛の舌頭を縦横無尽に動かして、触れればぱっと血の飛びそうな鋭利な論理を次から次へと連続発射、
このとき裁判長を務めていたのは、後の男爵松岡康毅。
拷問制度の廃止に大きく寄与したこの人は、前古未曾有にもほどがある訴訟内容にだいぶ面食らいつつも、その常識的な性情をみごとに発揮し、
「理屈はどうあれ、突飛に過ぎ、到底採用すべきでない」
と、至極真っ当な裁定を下す。
(Wikipediaより、松岡康毅)
元田は敗れた。
が、この男は気落ちしない。それどころか間髪入れず新たな古文書を引っ提げて、今度は酒井雅楽頭の子孫、酒井忠邦を向こうに回して同様の訴訟を開始している。
これまた敗訴に終わるわけだが、それでもこの二件のために世間は湧くような騒ぎに包まれ、元田直の名前もまた極めて広く流布された。
元田の目的が、もし最初から自己宣伝にあったなら、それは完璧に達成されたといって構うまい。
当時の日本人にとり、「代言人」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは「元田直」の三文字こそであったろう。それほどまでにこの二単語は深く結びついていた。
明治十三年、元田は東京代言人組合の初代会長に就任。
また同時期、東京法学社の創立に力添えをした事実から、法政大学創立者の一人としても名を残している。
(Wikipediaより、法政大学)
原内閣で初代鉄道大臣を務めた元田肇は、この男の養子であった。
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