穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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ますらをの真心こめて一筋に ―原田二郎の積み上げたもの―

 

 嘉永二年というから、黒船来航のざっと四年前のこと。


 紀州藩士原田清一郎の長男として、原田二郎はこの地上に生れ出た。


 維新後東京に出て洋学を修め、頭角を現し、やがて大蔵省の官僚に。銀行課に奉職するうち、同じく紀州出身の大実業家、岩橋轍輔に見出され、その娘を妻に迎える。


 これが更なる栄転へのバネとなり、弱冠31歳にして、第74国立銀行頭取に。現在の横浜銀行の前身に当たる、そんな機関の頂点に立てた裏面には、むろん岩橋の大きな力添えが存在していた――。

 

 

Bank of Yokohama Headquarters 2012

 (Wikipediaより、横浜銀行本社ビル)

 


 とまあ、こんなことをいくら書き並べても、所詮履歴書を機械的に読み上げているようなものであり、原田二郎がつまりはどんな男であったか、ピンと来る人は少なかろう。


 原田二郎を理解するなら、二つの事実を示すに限る。


 一つはこの人が82歳という、当時に於いては稀有な長命を保ったこと。


 二つ目はその一世紀近い生涯を懸けて築いた資産が、1000万円の夥しきに及んだことだ。


 現代の貨幣価値に換算して、まず200億は下らぬだろう。


 如何に原田が鴻池財閥の重鎮だとて、それだけで達成できる額ではない。


 大半は、個人的な高利貸しで生んだカネだ。


 この方面でも原田は比類なき記録をうち樹てている。ただの一度も借金を焦げ付かせなかったという、もはや人間業とも思われぬ、伝説的な記録を、だ。貸した金は、一文の例外も許さず悉皆回収しきってのけた。

 

 

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 その伝説を成り立たせた元種は、原田が決して「暴利」を取らず、あくまで「高利」の範囲内に自分を抑制しきったこと。


 それに加えて人物鑑識眼に優れ、借り手を厳選したことが挙げられるだろう。言うは易し、行うは難し。どちらも銀行家としての経歴を通して磨かれたものかと思われる。


 むろん、取り立ての手腕も物凄かった。


 こんな逸話が残されている。


 語り手は、ダイヤモンド社創業の雄、石山賢吉その人だ。

 


 氏が鴻池銀行の首脳者時代の事であった。
 岩下清周、鈴木藤三郎氏等の経営する日本醤油会社が、鴻池銀行から三百万円ばかり金を借りた。此の会社は後ちに破産したほどの会社だから、懐は苦しかった。然し、鴻池銀行からの借金は督促が厳しい為めに、遣り繰りをしながら返して行って、最後に四万円ばかり残った。それがどうしても返せない。それまでに、利息は可なり払って居る。それを払った残りの四万円だから、今暫く待って呉れるようにと、社長の岩下氏が原田氏にお百度詣りをして頼んだ。処が、原田氏は頑として肯かない。そこで、岩下氏はよんどころなく、時の総理大臣桂太郎氏に泣き付いた。(『金と人間』10~11頁)

 


 桂太郎長州閥の首領格。


 そして原田二郎を鴻池に引き込んだのは、やはり長州閥の大物の、井上馨の力に依るもの。今日の原田の威勢があるのは、いわば長州勢力の賜物で、この後ろ盾から攻めようとした岩下の戦略は至極真っ当なものだった。

 

 

Kiyochika Iwashita

Wikipediaより、岩下清周) 

 


 桂氏は、相手が原田だから、自分が言ってやったら、云ふ事を聞くだらうと思って引受けた。そして、
「僅かの金だから負けてやって呉れないか」
 と、原田氏に頼んだ。
 すると、原田氏は、
「僅かの金だから払ったらどうだ」
 と云って応じない。話上手の桂氏がそれから色々頼んだが、原田氏は何と云っても云ふ事をきかず、とうとう桂さんの懇談を物の美事に刎ね付けて了った。
 原田氏は銀行の貸金すら此の通りだった。況や、自分の貸金をや。(11頁)

 


 桂お得意のニコポンも、原田に対しては一向効力を発揮しなかったらしい。

 原田の詠んだ三十一文字みそひともじに、

 

ますらをの真心こめて一筋に
思ひいる矢のとほらざらめや


 というものがある。


 意志の強さを、如実に反映した詩だ。

 

 このような漢が容易に譲るはずもない。さしもの桂も、あまりに相手が悪すぎた。畢竟それに尽きるであろう。

 

 

11 KatsuraT

 (Wikipediaより、桂太郎

 


 一事が万事、原田はやることにそつ・・がなかった。


 前述した1000万円の私財についても、その中身を検めれば土地や株券は含まれず、それらに比べて価値の変動がずっと少ない――所謂「堅い」資産である社債・公債・現金のみで成り立っているという徹底ぶり。


 まこと結構ずくめな話のようだが、しかしここに重大な問題がただ一つ。


 後継者がいないのである。


 夫婦生活は円満だったが、子宝にだけは恵まれなかった。妻にもとうに先立たれ、原田二郎の晩年は、孤独の影がひどく色濃いものとなる。


 そのことと、原田積善会の設立は、決して無関係ではないだろう。


 なにせそのまま手を打たなくば、彼の遺産は自動的に国に没収、影も形もなくなる運命さだめだ。


(冗談ではない)


 想像するだに身を切られるような苦痛であった。

 

 

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 この1000万円は原田次郎の生きた証明、彼の人生そのものだ。どこの馬の骨とも知れぬ輩に、ぞんざいに扱われてなるものか。己が名前を千載の後まで伝えるような、有意な使われ方でなければ到底納得など出来ぬ。


(寄附でもするか)


 学校、病院、慈善事業と、引く手は数多と言っていい。


 が、これもよくよく考えると馬鹿げていた。

 


 今時の学校の卒業生は何になる。屁理屈を言ひながら、碌に働かないで、お金を沢山貰ふ事ばかり考へて居る。大切な財産を寄附して、斯う云ふ学校を発達させた処で、それが世の中の為めであるか、大なる疑問だ。
 医者だって、さうだ。病気を診断する医者はあっても、病気をなほす医者はない。せんじ詰めれば、彼等は医学遊戯の研究者だ。
 自分は生来虚弱で、医者から癒して貰った病気は一つもない。自分で自分に適した養生法を発見したればこそ、八十歳以上の長命を保ったのだ。無用の医学を発達させる為めに、寄附する金など一文もない。
 更に慈善事業に至っては、一層さうだ。あれは、なまけ者の養成所だ。(15~16頁)

 


 ありきたりな選択肢には悉く不満が残る。


 思案に思案を重ねた末に、ついに原田が見出したのが、自分の財産を法人化してしまう道だった。

 


 斯うすれば、自分の財産は其の儘保存される。人に勝手に遣はれるのは、其の財産が生む利息だけの事だ。これとても金の遣ひ方を知らない人の手に渡すのだから、余り好ましい事ではないが、元金を滅茶苦茶にされるより、優って居る。
 そう考へて原田氏が作った財団法人は、例の原田積善会である。(16~17頁)

 


 だからもし、原田二郎が子孫に恵まれ、その晩年が安泰だったら、果たして原田積善会なるものを発足させたか頗る怪しい。


 やったとしても、規模は相当縮小したのではあるまいか。

 数奇としかいいようがない。天はまったく、あじ・・な配剤をするものだ。

 

 

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