東京大学医学部の、同窓会の名称である。
厳めしい名だ。
重々しく、つけ入り難い、硬骨漢の集いといった感が湧く。勝手ながらそれこそが、字句の並びを一目見て、私の脳裡に咄嗟に浮かんだ印象だった。
もっとも「名付け親」達にしてみれば、そうした先入主を抱かれるのは、むしろ願ったりであったろう。
――医者は長袖者流で意気地がない。
と、他学部から嘲笑された屈辱と、それに伴う憤激こそが、発足の淵源なのだから。
(Wikipediaより、東大医学部二号館)
事の由来の詳細は、鐵門倶楽部草創期を生きた俊英、石原忍の随筆中に見出せる。
東京帝国大学の端艇競漕会は明治二十年から年々行はれて来たのであるが、その頃には他にこれに類似のものがなかったゝめに大学の競漕会は世の注目を惹き、新聞には詳細な記事が掲げられ、分科大学選手競漕には教授も先輩も学生も挙って応援をしたものであった。(昭和十六年発行『学窓余談』23頁)
これがすべての前提だった。
当時に於ける競艇熱の烈しさは、現代の甲子園に匹敵するか、或いはそれ以上ですらあったろう。
なんといっても優勝した学科では、講義が一週間に亘って休講となり、その間代わって飲めや歌えやの大祝勝会が営まれたというのであるから、凄まじいにもほどがある。
優勝旗を先頭に凱旋するメンバーは尊敬と羨望の的であり、まさに英雄そのものだった。
が、輝きが強ければ強いほど、影も濃くなると言うかのように。
敗者が嘗める苦渋というのも、より一層
ところがその頃不幸にして医科はどうも成績がよくなく、第四回と第七回には勝ったが、その後六年間といふものは連戦連敗で、他の学部の者からは、医者は長袖で意気地がないなどゝいはれ、頭が上らなかった。これに憤慨して起ったのが鐵門倶楽部なのである。その当時医科大学の本部の時計台の前に鐵の門があった。多分今の精神科の玄関のある辺であったかと記憶するが、そこから鐵門といふ名が起ったのである。(24頁)
(Wikipediaより、東大鉄門)
復讐ほど優れた原動力は存在すまい。
万人を酔わせる魔性の酒だ。
あん畜生めら、よくも見下しやがったな、いい度胸だ覚えてろ、吐いた唾は呑めねえぞ、いずれ必ず貴様らを、まとめて平伏させてやる――。
まったく当初の鐵門倶楽部は目の玉を七色に光らせた復讐者の集団であり、その内部では総身の骨を撓めるような猛特訓が日常のものと化していた。
(鬼だ。……)
新入生の石原の目には、彼らを
石原忍は、素人ではない。
東大入学前、一高時代三年間、ボートを漕ぎ続けてきた経験者であり、熟練者でもあった筈だが、そんな彼をしてさえも鐵門倶楽部のスパルタぶりは常軌を逸したものであり、数十年を経た後も、「人生で最も辛い経験」ぶっちぎりのナンバーワンに君臨させて譲らなかったほどである。
(Wikipediaより、石原忍)
この人は後に軍医になるため兵営生活を経験し、時間厳守の重要性を叩き込まれ、また欧州大戦勃発時には偶々ドイツに留学中――鶴見三三と同じ境遇――で、命からがらヨーロッパを脱け出したりと、数奇というかなんというか、とにかく波乱万丈な生涯を送っているが、それでも一番上は「鐵門」というこの偉観。
戦慄せずにはいられない。
もっとも辛いからといって、それが直ちに不幸なる、「嫌な思い出」になるわけではないらしい。
東大は私たちの入学する二年前に鐵門倶楽部が出来、(中略)創立に近い意気の最も旺盛な時でしたから、ボートの練習も中々苦しかったものです。
この苦しい練習が今日まで非常に身のためになって、大概の事は我慢ができます。実際私の生涯の中にはボートの練習ほど苦しい経験は今日まで他にありません。(130頁)
むしろその逆、鐵門での経験を巨大な財産と視ていたことは、上記の発言からでも十二分に読み取れるだろう。
実際、艱難辛苦の報酬はあった。石原忍の在籍中、医科は破竹の勢いで競漕会を勝ち進み、「4M」と呼ばれる黄金時代を実現している。
(明治三十八年度、祝勝会の記念撮影。前列左より六番目に石原忍)
倶楽部設立の目的は、完璧に達成されたといっていい。
初志貫徹の光景は、なんであれ清々しいものである。
「すべて競争には人の出来ないと思ってゐるやうなことをやらなければ、勝ち難いものである。世間の生存競争でもこれと同じで、他人よりも余計に勉強をし努力をする者が概して勝利を得るやうである」
という彼の箴言は、明らかに一連の体験を通して帰納されたものだろう。
卒業後も石原と鐵門倶楽部の関わりは続いた。
大正十四年から昭和十二年にかけては副会頭を、
昭和十二年から同十五年にかけては会頭を、
それぞれ立派に務めあげ、後進の育成に多大な貢献を成している。
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