明治十二年は囚人の取り扱い上に、色々と進展が見られた年だ。
たとえば皇居の草刈りである。
日本のあらゆる権威の根源、
皇国を皇国たらしめる御方、
すめらみことが坐する場所。
重要どころの騒ぎではない、そういう謂わば聖域を、美しいまま保つ作業は従来府庁の役目であった。
が、四月から、これが変わった。警視局が代わって任に就くことになり、移譲早々、彼らは皇居周辺の浮草並びに野草刈り取り作業に関し、すべて囚人の手によってこれを
罪を犯して裁かれた――懲役に在る身といえど、安易に「穢れ」扱いするな。そういう意図を迂遠に籠めていたのだろうか。でなくば「浄域」を管理するのに、態々彼らを宛がう理由が見当らぬ。
監獄は懲罰の為でなく、更生の為にあるという、欧米流の人権意識へ接近したいという意思も、少なからずあったろう。国際社会で文明国と認めてもらいたい故の、ひいてはそれにて不平等条約の改正になんとか漕ぎ着けたい故の、いじらしい努力の一環だ。
(『アンチャーテッド コレクション』より)
翌月には少年囚への獄内授業が
市ヶ谷監獄第二支署での試みだった。
四ツ谷学校に協力を仰ぎ、隔日に教員を出張せしめ、講義を施す仕組みを確立。小学簡易科を
十月の定期試験に参加させてみたところ、これまた成績上々で、
全科卒業の者一名、
六級卒業の者五名、
七級卒業の者九名、
八級卒業の者二十八名と、
斯くの如き好結果を呈したという。
正式な卒業免状も授与された。むろん、四ツ谷学校の名に於いて、である。
(市ヶ谷刑務所、昭和初期)
佃島監獄なぞも面白い。
ここでは十一月の中旬に、敷地内にて鐘まで鋳造してのけている。
区役所に向け差し出した、
佃島監獄署に於て、半鐘鋳造候間、来る十七日前第六時より十八日午前第二時迄煤煙飛颺すべきに付、為心得此旨相達候事。
明治十二年十一月十五日
大警視 大山巌
こういう書類が遺っているのだ。
塀の中とて馬鹿にならない、なかなか以って賑やかである。
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