本人の語りによるものだから間違いはない。それは札幌農学校に教鞭をとっていた時分、己に課した習慣だ。
(北海道帝国大学)
授業のために、指定の教場へ向かう都度、新渡戸はいきなり扉を開けず、
――生徒は大切である、仮令無礼なことがあり、又は癪に障ることがあっても必ず親切に導かねばならぬ、妄りに怒ってはならぬ。
自分で自分に暗示をかけたといっていい。
おまけに一日何回も、凄い厚塗りであったろう。
それだけ入念に細工をしても、「教場に入って居ると何時しかこの心がけを忘れることもあった」――我慢しきれずブチ切れて、怒鳴りつける失態を少なからず犯したようだ。
そういう場合、激情の波が過ぎ去ると、いつも新渡戸は深い悔恨にさいなまれ、苦悶のあまり食が細るのも屡々だった。
(意志の力で感情を制御することの、なんと至難であることか)
こんな経験を重ねるにつれ、新渡戸は徐々に我と我が身に対する理解を深めていったそうである。
要するに、自分がもって生れた器量は所詮凡庸であるということ。
「凡夫であるから、必らずしも総てが聖人たることは望まれぬ。……我々凡人は到底一躍して立派な人にはなれぬ。卑近な点から始めて漸次に向上すべきである」
そういうことを認める気になったのだ。
蓋し感服に値する。
これこそ
(札幌駅前雪景色)
世の中のことは一足飛びに運ばない、全く以ってその通り。「急進」には痛快味より危うさが先立ち馴染めない、胡散臭いと思ってしまう。進むにしても用心深く、無理を排してゆっくりと――何かにつけて漸進主義を尊びたがる私の趣味、性癖に、よく適合したわけである。
で、掘り下げてゆくにつれ、以前引用したような、
「歴代の文相は賢明なものが多かったであらう。然し日本文明の教育といふ点から見れば、福澤諭吉先生が最も多大の力あったと思ふ。故に実際の仕事をするに、何も必ず大臣にならねば出来ぬといふのではない。苟も行はんとする精神だにあれば、民間に居ても随分に出来る」
一万円の御仁に関する評論も、芋蔓式に
新渡戸稲造、やはり味わうに足る男。
(Wikipediaより、旧五千円札)
五千円札の肖像を務めるだけの人間性の充実を、確かに備えていたようだ。
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