大正九年十月の国勢調査に従えば、当時樺太――むろん南半、日本領――に居住していたロシア人の総数は、ギリギリ三桁に届かない、九十九人だったとか。
明治三十八年のポーツマス条約締結時、つまりこの地が「日本」になった直後では、およそ二百人ほどがあくまで居残ることを選んで引き揚げを拒絶したというのに。指折り数えて十五年、ずいぶん減ったものである。
まあ、あと何年かしたならば、革命で祖国に居場所をなくした、いわゆる「白系ロシア人」らが東の果てのこの地にもはるばる流れ着いてきて、少しは人口恢復に寄与してくれる次第であるが。
とまれかくまれ、「丸太作りの小屋に棲み、中流以下の生活をする」残留ロシア人たちは、具体的にどんな暮らしを送っていたか。
彼らの日常風景につき、かなり詳細なスケッチを遺しておいてくれたのが、樺太庁の技士である、川崎勝という男。職務柄、彼らと関わる機会とて、多かったかと思われる。それに曰く、
「…夏は馬鈴薯、キャベツ、小麦等を自作自農し、牧畜を業とし、冬季は狩猟を以て生計を立てる。採暖装置はペーチカを主としストーブはめったに使はぬ。ペーチカは粘土を以て固めた煉瓦様のもので築き冬は之に薪を焚いて寒さを凌ぎ窓はすべて二重である。彼らは自ら作り自ら耕し、自ら製粉せる小麦でパンを焼き、養へる牛の乳を搾って飲み、牛、豚の肉を塩蔵して冬の用に備へる。多くは日本語を語り子供は日本の学校で教育を受ける」
素朴というか、牧歌的というべきか。
ツルゲーネフとか、あの辺のロシア文豪が小説の題材に使っても違和感のない景色であった。
ときにはこの、「自ら製粉せる小麦で」焼いたパンや牛乳を、最寄りの駅のプラットフォームに持ち来たり、売り捌きもしたらしい。
本多静六林学博士がゆえあって北方をひとめぐりした際に於いても、その旅日記に
「南から北へ細長い樺太を縦貫する間に数駅で『ロシアパン、ロシアパン』と呼ぶ聞き慣れない日本語を聞く。パンを焼いて異人種の間にほそぼそと生計を立てゝゐる残留者の淋しさが忍ばれる」
斯くの如き一文を態々挿入しているあたり、だいぶ思うところがあった、――胸に迫ったようだった。
(プラットフォームの「ロシアパン」)
しかし彼らも、一九四五年の敗戦により、赤露に樺太を席巻されて、結局は……。
北の大地の悲愴であった。
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