穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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神秘なるかな隠れ里 ―三面村・中編―

 

※2022年4月より、ハーメルン様に転載させていただいております。

 

 案内された小池村長の邸宅で、一行は妙なことを求められた。村長はおもむろに宿帳のような帳面を持ち出して来て、


「是非、みなみなさまの御署名を」


 と頼むのである。


「村の記念にしたいンで」


 来訪者に対する習慣の一つだそうだ。
 某は快く頷いた。
 帳面をぺらぺらめくってみると、明治十四年「山縣」なる姓の持ち主が訪れたのを皮切りに、計二十六人分の人名が記してあった。更にその二十六人の内わけを探ると、半数以上が収税官であるという。


(まさか、本当に来訪者がこれだけというわけでもあるまい)


 訪れはしたものの、署名を拒否した者とて少なからず居たに違いないと考えて、その旨を村長に訊ねてみると、


「いえ、本当にその方々で全部です」


 との答えが返ってきたから、某は言葉を失うほどに驚いた。
 三面村の住民が納めるべき税は、一旦この小池村長の下に集められ、それから改めて訪ねて来た収税官へと渡される。
 驚きの去らぬ某をよそにその手続きが進められ、特筆すべき大過もなしに完了すると、どうやら生真面目な性質らしい収税官はこの税がどのように役立てられるか、租税というものの基本概念に立返ってまであれこれ解説を加え始めた。


 が、某の見る限り、小池村長の面上には念仏を聞かされる農耕馬ほどの関心も浮かんでいない。


 彼はただ、税を出さなければ村と自分たちの身の上に何かとてつもなく恐ろしいことが降りかかってくるような、そういう漠然とした心持ちから制度に対して盲目的に服従しているだけだとしか思えなかった。


「民は由らしむべし、知らしむべからず」――。論語』泰伯編のこの一節を原理として訓育された、封建時代の民衆の姿そのものである。

 

 

Commentaries of the Analects of Confucius

Wikipediaより、論語

 


 めしの前に、風呂が出た。


 先に「邸宅」と書きはしたが、その言葉から連想される豪奢な造りは、この家のどこを探したところで発見できない。畳が敷かれている部屋など一室もなく、せいぜい板敷に蓆がかぶさっているだけである。


 廊下は暗い。目が痛くなるような闇によって常に満たされ、十月の冷気とも相俟って、亡霊が出ない方がむしろ不自然な雰囲気を演出している。


 そんなだから、いきおい風呂も原始的なものにならざるを得ない。巨岩に穴をぶち開けて、その穴の中へを据え、沸かした湯を注ぎ入れただけのものだ。


 追い焚きなど、思いもよらぬ機能であろう。


 それでも十一時間に亘って山中を彷徨した体には、この風呂は何よりの恵みであった。

 

 

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 風呂から上がると、ムジナの毛皮の敷物の上に座らされ、薄暗い行燈の灯影のもと、特別に整えられた夕めしを喰った。


 その後は、はや寝るだけのことである。電燈など影も形もない以上、数百年来変わらぬままに、夜は人間の棲み処でないのだ。寝てやり過ごすに如くはない。

 潜り込んだ布団というのも、やはり来客用に特別に用意された代物で、村人たちは一様に、藁の山に潜り込んで寝ているという。


 一旦閉じた某の意識は、翌早朝、門口で頻りに吹き鳴らされる法螺貝の音で急浮上させられる運びとなった。


 この村では法螺貝が朝の鐘の代わりなのかと思いきや、村長に聞くとそうではない。人足を呼び集めるために鳴らすのだという。


(まるで戦国の世の陣触れだ)


 そんな問答をしている間にも村の方から百姓姿の男たちがやって来て、土間にしゃがんで命が下されるのを待っている。


「大儀だのう」


 その男どもの頭上に村長はゆったりと声をかけ、


「町の方から旦那様が御座らしたで、何某、お前は山へ行って芋を掘ってこい。何兵衛、お前は川へ行ってヤマメでも」


 といった具合に、次々指示を飛ばしていった。
 男たちが、


「へい、かしこまりやした」


 と答える動作まで含め、見事に型通りであることに感心するやら、小池村長の指示という指示が悉く、自分達をもてなす目的であることに気恥ずかしさを覚えるやらで、某はまったく身の置き所に困ってしまった。

 

 

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 朝めしを済ませると、某のみは一行と離れ、村唯一の寺を視察に向った。案内人には、なんと村長である小池大炊之助自身が立ってくれた。


 村から若干距離のある、山際の小高いところに建てられたこの禅寺は、同時に村唯一の教育機関でもある。
 明治三十三年に於いてなお、三面村では寺子屋が現役だったのだ。


 坊主と教師の二役を兼ねる人物は、みたところ四十年配ぐらいの、牛のように無口で挙動ののろい・・・男性だった。村の子供たちは男女の別なく、一人残らずこのから読み書き算術を習うという。その説明も、ほとんど大炊之助がした。


 更に話を聞き続けると、彼は三面の出身ではないらしい。


 もともと信州松本の産であったが、十三年前、風の噂に三面なる異風な村の存在を聞きつけ、興味を起こし、好奇心の導くままに獣道を踏んでやって来た。

 で、やはり小池村長の家に厄介になり、十日過ぎ、二十日過ぎするうちに次第に離れがたい魅力をこの村に対して覚えてしまい、ついにこうして村の一員になったのだと――小池は誇らしげに語ってくれた。

 

 

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(本当かな?)


 が、某には到底、その話を鵜呑みにする気にはなれなかった。
 自分自身の経歴を談じているにも拘らず、男は相変わらず口を開こうとしないのである。
 語りは総て、小池頼みだ。
 某がたまに水を向けても、至極簡単な返答以外決して声を出そうとしない。多言を慎む、そのあまりにもな頑なさから、某は彼の背後に計り知れない秘密の雲の渦巻きを予感せずにはいられなかった。


(迂闊に喋りを重ねれば、ふとしたはずみで本当の・・・生国の訛りが出て、何処の何者であるか露見しないとも限らない。それを警戒しての魂胆か)


 この年代なら維新回転の風雲には間に合わずとも、征韓論以後立て続けに起こった明治初期の動乱にならば、或いは際会したやもしれぬ。


 落人伝説を受け継ぐ村が、新時代の落人を受け入れ、匿い、教師役に据えてやる――。


 伝奇作家垂涎の構図であろう。ちょっと飛躍が過ぎる想像かもしれないが、あながち有り得ないとも言い切れないのがこの時代の特色だった。

 

 

 

 

 


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