穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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明星よ、ベツレヘムの空にあれ

 


「暮の二十五日になると必ずクリスマスセールが始まる。日本にも多くのキリスト教徒が居るからキリスト降誕を記念する催しのあるのは当然だと思はれるけれども、日本のクリスマス騒ぎはあまり宗教的な意義はなく、無論キリスト降誕は無関係であるらしい。…(中略)…商店のクリスマス祭はつまり年末大売出しの一様式と解釈すればよいので、考へやうによってはこれもイエス・キリストの徳の現れであるかもしれない」

 


 昭和十年の段階で、既に日本はこう・・だった。

 

 

(viprpg『やみっちらいちで適当に2』より)

 


 親鸞上人の命日だろうと、ぜす・きりしとの生誕だろうと、別になんだって構わないのだ。細かい理屈は野暮である。そんなものはうっちゃっておけ、我々にはただ、もっともらしい口実さえあればよい。とにかくわっと華やかに騒げりゃみんな満足だ。商人どもが掻き鳴らす馬鹿囃子には乗ってやれ。踊る阿呆に見る阿呆、敢えて態々、水を差すには及ばない。かくて日本民族は、実に陽気に見境のなさを発揮する。

 


 ――冒頭に引いた観察は、遡ること八十八年、まさに師走のこの時期に、理研所属のエンジニア、辻二郎の筆によりしたためられたものである。

 


 流石は初代国家公安委員長なだけあって、世間に向ける眼差しは、紛れもなく上質だ。


 彼の著作は何点か所有しているが、中に一冊、署名入りのやつがある。


 下が即ち、その、それ・・だ。

 

 

 


 昭和十一年刊の『偏光鏡』の見返しに記してあったものである。


 宛先である「真島先生」。この人物は十中八九、真島正市工学博士と思われる。理研に入所した当初、辻は暫く、真島研究室員として尻を磨いていたからだ。


 つまりは恩師へ贈った一品。初版本であることも、この予測を裏付ける。


 よほどのが籠った品に相違なく。――そんな貴重なシロモノが、どういう因果の巡りによって我が手元へと至ったか、旅路を想像おもえばひどく遼遠な感がする。

 

 

 


 今日のところはウイスキーでも開けながら、片手に本書を捲りつつ、ゆるりと夜を過ごそうか。


 贅沢な「時」の消費つかい方だと自負できる。自分自身を満足させる方法を、私は割と知っている。それを教えてくれたのは、やはり無数の古書なのだ。

 

 

 

 

 


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