その日、北緯五十度線は忘れ難い客を迎えた。
北緯五十度線――南樺太と北樺太を分かつ線、すなわち大日本帝国とソヴィエトロシアの境界である。そこへ日本内地から、林学者がやってきた。樹相の若い適当な木を指差して、
「あれはどっちです、日本ですか」
と、案内役の巡査相手に訊いたりしている。
「いいえ、ありゃあロシア側です」
逡巡するふうもなく、巡査は答えた。
「あれの一尺ばかり手前に黄色い花が咲いていましょう」
「どれどれ、どこです、ああ、見つけた、あれですか」
「あいつがちょうど五十度線上に咲いている、いい目印ってわけでして」
「ははあ、なるほど、うまいこと。――」
林学者の名は市河三禄。
大学で英文科に進んだ者ならあるいはピンと来るだろう。日本英語学の鼻祖にして、その名が賞にも転用された「市河三喜」の実弟である。
三喜が次男、三禄が三男。いちばん上に三陽という兄がいて、これまた名前に「三」がつく。
ばかりではない。
父親は萬庵と号する書家であり、本来の名は三兼という。やはり「三」の字を含む。この伝統が始まったのは三禄からみて祖父の代、亥年亥日亥刻に
以上は、余談。
三兄弟の三番目の三禄は、五十度線に近づいた。
例の目印の黄色い花を、すぐ爪先に控えるところまで迫る。
「先生、どうか御用心」
しゃがれ声で巡査がいった。
「ロシア側では極端に厳しく警戒していますから、一歩でも露領に
「大丈夫、大丈夫」
あしらいつつ、三禄は前をはだけさせ、ぼろんと陽物を取り出した。巡査の顔の筋肉が、もう見るからにこわばった。生温かい液体が、勢いよく奔り出た。
樺太の藪、北緯五十度線上に、黄金色のアーチがかかる。
(どうだ)
(市河三禄、台湾旅行中に撮影)
まるで「関東の連れ小便」だ。小田原征伐の最中に於いて、
なお、三禄のこの「越境」は、もちろんなんの国際問題も起こさなかった。
よくぞ男に生まれけり。明治生まれの野郎とは、いやはやまったく本当に。
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