同愛会は朝鮮人団体である。
墨田区本所に本部があった。
大正十五年師走のある日、大きな荷物を携えた日本人青年が、この同愛会本部を訪れている。
どういうアポも、紹介状の用意もない。一見の客の脈絡のない訪問である。疑惑の視線を隠そうともせぬ受付に、青年はしかし特に気にした
「どうぞこれを皆さんに差し上げてください」
運び込んだ大荷物、銀座三越の包装が為されたそれを指差し、あとはどういう反応も求めてないのか、からりと身を翻して去ってしまった。
(昭和初期の銀座三越)
てきぱきとしたその仕草。
(なんなんだ、これ。なんだったんだ、あいつ)
事態の咀嚼に、受付はだいぶ時間を要した。あくどい狐狸のつくりだす、白昼夢に嵌り込んだ気分であった。
(ふむ。……)
置き去りにされた荷物に触れる。
確かな手ごたえが指先から伝わった。少なくとも、霧と化して消えたりしない。
そのまま包みを解いてみる。
中身を検め、受付は、
「あっ」
と、声をあげて驚いた。
入っていたのはキツネ色のバターパン、のべ千五百個もの多きに及ぶ。
手紙も同梱されていた。飾り気のない、さっぱりした筆跡で、
親愛なる貴君は申す迄もなく世界に誇る大日本国民です、私も同じ日本国民です、私はいつも自分の励み次第で職業はいくらでもある、どんな職でも僻みとか力吝みは悪い事と思って働いて来ました、よい事はどこまでも大小共出来るだけ行ひたいと思ふ、今後も諸君と共に業務に奮励努力して毎日意義ある生活を造りませう、余分の金は一銭にても預金し、万一の時に困らない様心掛けませう、諸君の健康と幸福を祈ります。
このように記されていたという。
(朝鮮を旅行中の市河三禄)
報告を受け、同愛会は機敏に動いた。
役員二名が――
「みな、泣かんばかりに喜んでいます」
理解に富んだ、こういう人士あってこそ、内鮮融和は実を結ぶ。ぜひ記事にして社会に広めてもらいたい、我等も内地に居住する十五万の同胞に誠心誠意伝えますから――。
そういうことを喋ったらしい。
願ってもない特ダネである。
新聞は嬉々として取り上げた。
お蔭で百年後を生きるこの私の手元にも、該情報が
いや面白い、途轍もなく面白い。
このときパンを受け取って感涙した朝鮮人が、果たして昭和二十年八月十五日以降、日本人にどういう態度をとったか
(終戦の日の学級日誌。山梨県北杜市津金小学校にて撮影。「四国宣言受諾の翌日にして一億血涙を呑む」)
台湾人や朝鮮人などのいわゆる三国人は戦後、戦勝国民ということで、各地で統制品、禁制品を大っぴらに売買するなど、無法のかぎりを尽くしていた。昭和二十年の十二月には小石川の富坂警察署が約八十人の朝鮮人の暴徒に襲撃され、多数の負傷者を出すという事件があり、その横暴は目に余るものがあった。上野駅では「コリアン・ポリス」などと腕章をつけた朝鮮人が、勝手に日本人の買出しを取り締まり、運んでいた物を没収したり、勝手に切符を発行したりした。また彼らは満員のバスに乗り込んで来たりすると、「お前らは負けた奴らだ。座席から立て」などと怒鳴り散らして客を立たせることも多々あった。(原田弘著『MPのジープから見た占領下の東京』)
本当に興味深い話だとも。
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