工事が
明治二十年代半ば、それまで順調に推移していた山陽鉄道の建設は、しかしながら最後の最後、広島・馬関(下関)の百マイル余を繋ぐ段にて、にわかに凍結させられた。
大詰めで「待った」が入ったのである。
いつもいつも、
――ほんの少し。
が問題となる。宛然リニア中央幹線の開通が、静岡工区の数キロにより暗礁に乗り上げているように――。
もっとも因って来たる所以の方は、だいぶ色合いを異にする。リニアの場合、大井川水系への悪影響を危惧する地元住民が、もっぱら反対の旗手に対して、山陽鉄道に異を挟んだのは現地に住んだこともない、中央の軍事論者であった。
「海岸線は危ない」
という。
「敵軍艦の砲撃を容易に浴びるではないか」
よろしく天然の防壁を得る、山間にこそ通すべし。中国山地をうねうねと、縫うようなルートを描くのだ。それが彼らの主張であった。
「そんな箆棒な話があるか」
会社はむろん目を吊り上げて反撥し、商利の観点に基いて海岸ルートに固執する。ことが国防に関するだけに、相手も容易に譲らない。斯くして事態は麻の如くに乱れて縺れ、いたずらに月日を空費した。
(広島大本営)
「何をグダグダやっていやがる」
悶着を見かねて、また存外な大物が解決のため動き出す。
「費用を見てみろ、まずは費用を。――海岸線なら六百万で事足りるのが、山間線じゃあ二千万より更に上、三倍強の出費だぜ」
ぱちぱちと、手馴れた仕草でそろばん玉を弾いて突き付け、軍事論者の口を塞ぎにかかるのは、ご存知福澤諭吉先生。
明治十六年の段階で、
――凡そ開闢以来発明工夫多しと雖ども、之を人事に適用して直に勢力を逞ふし、恰も其向ふ所に敵を見ずして人間社会最上の様を専らにしたるものは鉄道の外にこれあるを見ず。
斯様な言を恣にしていた彼だ。
この種の手合い――変な言葉だが文明主義者にしてみれば、山陽鉄道の直面している遅滞渋滞停滞ぶりほど教理に反することはなく、受けるところの歯痒さは、「許し難い」のレベルだったに違いない。
「それよりここは六百万で手を打って、だな。浮いたところの一千数百万円で軍艦の三、四隻でも調達したらどうなんだ。そっちの方が、国防上にもよほど効果は良だろう」
敵戦艦の艦砲射撃が危惧される? そもそも敵を瀬戸内海に侵入させるな、なんのための海軍、なんのための艦隊だ。制海権の掌握こそが任務だろう――と。
自己の経営する『時事新報』、明治二十七年四月十八日の紙面に於いて、縦横無尽にやってのけたものである。
「百歩譲って、山間線の必要性を認めたとして。その場合、既に敷設しちまった神戸・広島間はどうなる。海岸も海岸、磯部の小貝をつい拾いに行きたくなるほど開けきった展望の、防御力ゼロ区間だぜ。ひっぺがして一から策定し直せとでも言う気かよ」
このあたり、福澤の言をそのまま引くと、
――好し、広島以西を山間に取ればとて、俗に所謂頭隠して尻隠さゞると同様、更に国防の甲斐ある可らず。
つまりはこういうことになる。
無慈悲なまでの正論だった。
一言一句、何処を探せど異議や文句を差し込む隙間がまるでない。
金閣寺の一枚天井みたいな抜け道のなさで徹底的に、「山」に拘る軍事論者を圧し潰しにかかっているのがよくわかる。
それもそのはず、福澤諭吉にしてみれば、山陽鉄道の建設は広島と下関を繋いでハイお終いとなるような、そんな
むしろそこからが本番である。
「山陽鉄道と九州鉄道は、いずれ接続されねばならぬ」
それこそ彼の趣意だった、門司海峡に橋を架け、地続きにすることこそが――。
…イヨイヨ山陽鉄道も馬関に達するの暁には、爰に九州鉄道を通ぜざる可らず。連絡を通ずるには門司海峡に大橋を架設せざる可らざる訳にして、此の工事たるや中々以て大事業なり。海峡の相距る僅かに五百間内外、呼べば応ふる計りなれども、如何なる大艦巨舶にても自由自在に橋下を往来せしめ、且つ将来造船の進歩等をも考察して、充分に高架せざる可からざるが故に、其の費用も尋常橋梁の比に非ずして、方今の為替相場等を斟酌すれば凡そ一千余万円を費やす可しと云ふ。
この全容は、なんとしてでも原文のまま味わうべきであったろう。
構想自体の雄大さ。
且つ、それを地に着け、実現させんとする努力。
二つの要素が組み合わさって、先覚者としての福澤を、同時代人の誰であろうと及ばない「別格」の領域に押し上げている。
(関門連絡船)
「仮りに今明治社会の大人物を、有形上無形上より、こなごなに打ち砕いて、其長短を一つ搗き交ぜて、団子を拵へて見たら、福澤先生の団子が、遙に他の団子より大きくなると云ふ結果だらうと思ひます」
そう語ったのは尾崎咢堂、晩年に於ける回顧であった。
よく的を射た人物評に違いない。
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