「寄贈」
「横須賀海軍病院患者文庫」
表紙には斯くの如く印されている。
本の題名は『萬年中尉』。昭和十三年刊行、著者である薄田精一は、その昔士官候補生として軍務に励み、しかしながら中途にして病を得、軍籍離脱を余儀なくされた経歴を持つ人物で、なるほど傷病兵が読むに相応しい一冊である。
著者の経歴についてもう少し詳しく触れておくと、彼が士官候補生として野砲第八連隊に所属したのは明治三十四年十二月一日付けのこと。
以来、同四十一年六月十一日に休職となるまで、およそ六年半の軍隊生活を送っているが、この六年半はただの六年半ではない。
極めて密度が高いと言える。
なにしろ日本国が嘗て経験したためしのない一大試練、日露戦争を挟んでいるのだ。著者もまた軍籍に身を置く以上無関係であるはずがなく、現に三十七年の六月七日には彼が身を置く第八師団にも動員令が下されている。
(Wikipediaより、大正四年頃の第八師団司令部)
これを受け、著者以外の同期生はそのまま現所属中隊の小隊長に任ぜられたからいいものの、彼のみはどういうわけか新設部隊の掌握を仰せつかったからたまらない。目の廻るほど多忙な日々が待っていた。
新設部隊の動員は、責任の重大な仕事で到底青二才の少尉などの当るべきことではない。同僚の誰れ彼れは『金鵄勲章の筆頭は薄田だ』などと煽てられても間尺に合はぬ程頭を使った。斯んなときは最古参の大尉位の任ずべきものと、つくづく思はせられた。(43~44頁)
さて、その困難な事務に堪え、いよいよ自分が命を預かることになる小隊の顔触れを眺めてみると、見知った顔はほとんどない。
いずれも予備役から召集された、三十五・六の老兵ばかりだ。
ここで再び、薄田少尉は深く悩まねばならなくなった。彼らに対し、何を訓示するべきか。
「彼等は家庭に在っては、指揮官であり、教育者である。而かも国難に臨んでは、一身一家を捨てて、召集に応ずる以上、一大決心と、覚悟とを有するは、元より当然である。
此等の人々に月並な訓示を為すが如きは、屋上屋を架すもので、真に蛇足に過ぎないと信じた(49~50頁)」からに他ならなかった。
部下を「兵隊」という概念ではなく、一人一人血の通った人間として認識せねばこの発想は出て来ない。
(著者近影)
いったい何を言ったなら、一回り以上は年上な、ほぼ初対面といっていい部下の老兵たちを心服せしめ、喜んで命令に従うようにできるのか――?
懊悩の果て、ついに形を成した少尉の訓示は、まさに「会心」と呼ぶに足る出来だった。
以下に全文を掲載する。少々長いが、是非とも一読を願いたい。
「日露戦争の意義は、宣戦詔勅に御垂示の通り、勝敗の決する処、吾が日本帝国の興廃に関するや、今更申すまでもない。
吾々軍人は、階級の如何を問はず、上下一致して各々其本分を守り、飽迄、義勇奉公の実を挙げねばならぬ。之が為自分の所見と、覚悟とを述べて、希望の一端を披瀝したいと思ふ。即ち、
汝等は寝ても起きても、故郷のことを忘れるな!
汝等が、召集令状の赤紙を受取って、村人に見送られ、萬歳聲裡に故郷を出発するときの覚悟を忘れてはならぬ。
多くの人は云ふであらう。『此大国難に臨み、大元帥陛下の股肱として、戦場に馳せ向かふとき、身を捨て、家を忘れて、一途に御奉公に精進せよ!』と、自分は其れとは反対に、決して故郷を忘れては呉れるな。
汝等の留守宅では、汝等の愛しき妻は、観音様に御百度を踏んでゐるぞ。頑是ない幼子は母と共に、紅葉のやうな手を合せて、無心ながら何事かを祷ってゐるぞ。老い先少なき両親は、我子の為に神前又は仏前に祈願をこめてゐるぞ。
之等の人々は、汝等が『仮令捕虜になっても、無事に帰って来て呉れ』と祈ってゐるのではない。思ふ存分御奉公して、而かも達者で凱旋するやう神仏の加護を祈ってゐるのだ。
此心根を思ふとき、吾々軍人は、如何なる態度を取るべきであらうか?
畏れ多くも、大元帥陛下の御思召も斯くあるであらうと拝察する。さりとて暴虎馮河の勇を振ふべきではない。汝等の生命は実に貴い。能く健康を保って、人一倍の御奉公を心掛けねばならぬ。
以上の所見と、決心とは、自分自ら覚悟する処、移して以て汝等に之を望む。終り。」
(50~51頁)
人情の機微にひたひたと添う、見事な訓示と評したい。挙げた例にしてもそのいずれもが生々しく、瞼の裏に容易に浮かぶものばかりで、我が事として実感するのが至って容易だ。
そして何より、前途に希望を抱かせたのが素晴らしい。
ところがこの演説は、上官からは甚だしい不興を買って、一刻も早く撤回せよ、撤回して「忘身忘家」を貫徹する旨改めて説けと何度も何度も迫られたという。
が、薄田少尉が肯んずることは決してなかった。
大和民族の愛国心は、愛郷愛家の醇風より発する。そう信じていたからである。
『萬年中尉』の間には、このようなモノも挟まっていた。
年代物の封筒である。片隅にはやはり、「海軍」の判が。
中身の方は、残念ながら空だった。在りし日には、何が封入されていたのだろうか。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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