豊臣秀吉の漁色癖に関しては、敢えて喋々するまでもなく、周知の事実であるだろう。
彼はまったく、女を好んだ。
この傾向は晩年に入ってもなお熄まず、どころかいよいよ拍車がかかり、もはや「好む」の範囲を飛び越え「女狂い」の観さえ呈す。本願寺上人の未亡人に懸想して後継問題をややこしくしたとか、食指が動けば家臣の妻でも見境なしに手を伸ばし、それだからこそガラシャ夫人は拝謁の席で態と懐刀を畳に落とし、覚悟のほどを示したのだとか、風説を挙げればキリがない。
が、一つ確かなことがある。
秀吉は自己の乱行には寛大でも、他者が自分に対して犯す不義密通には酷烈で、ときに鬼神も怯えるほどの罰を下して憚らなかったということだ。
格好の逸話が『時慶卿記』に載っている。
八十七歳という、当時にしては驚くべき長寿を保ち、織田・豊臣・徳川と、激動する世の移り変わりを目の当たりにした時代人。西洞院家二十六代当主、西洞院時慶によって書き留められた公卿日記はこう語る。
――あるとき
隠し夫と手を取り合って、どの角度から観測しても言い訳の余地なき駆け落ちだった。
果たして秀吉は激怒した。部下をして草の根を分ける勢いでその探索に当たらしめ、やがて両人を発見すると、躊躇なく鋸挽きの惨刑を以って処している。
人間に生れたことを後悔するほどの苦痛の果てに、二人は漸く息絶えた。彼と彼女にとって死は、恐怖ではなく解放として、歓迎すべき事態ですらあったろう。
が、話はこれで終わらなかった。
秀吉の憤懣、よほど根深く。当事者を殺しただけでは飽き足らず、更にその子と乳母までも縄にかけて釜にぶち込み、煮殺すという異常なことを敢えてしている。
残虐としかいいようがない。
阿鼻叫喚の畜生塚を生み出したのも納得だ。
いや、武家社会である以上、駆け落ちの代償を命で以って支払わせるのは珍しくない。
武士道とは、煎じ詰めれば男道。色狂いの姦婦めが手前勝手に家を捨て去り、何処の馬の骨とも知れねえ間男野郎と逐電しておきながら、残された旦那がただ呆然と、悲嘆に暮れて泣き濡れるばかりという光景は、想像するだに見苦しくて堪らなくなるものだろう。男らしさの対極に位置しているのは、弁護の余地なく明らかである。
おのれ人非人どもめ、どうするか見ろ、この俺の手で五寸刻みに刻み散らして畜生道まで叩き落としてくれようずと家重代の刀を掴み、後を追って駆け出す方がよほど健康的である。
このタイプの復讐は、江戸時代では「
が、幾度となく繰り返された「女敵討ち」の中にあっても、秀吉以上の凄まじさでこれをやった例というのは存在しないのではないか。
しかもよくよく見返せば、相手は側室ですらない。せいぜいが何度か「お手付き」をしただけの侍女だろう。にも拘らず、ああまで瞋恚の焔を燃やすというのは完全に理解を超えている。
ルイス・フロイスはその『日本史』にて関白以後の秀吉を、「極悪の欲情」に憑かれた男とたいへん手厳しく書いたそうだが、蓋し至当であったろう。
――結局のところ秀吉は、
彼について想いを馳せると、私はいつもそんな気分にたどり着く。
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