辞世の句を刻むとき、「夢」の一字を挿みたがる手合いは多い。
浪速のことも夢のまた夢
と吟じれば、徳川家康、
浮世の夢は暁の空
といった具合だ。
それにしても、この対照の妙ときたらどうであろう。
陽気そのものの如くであった生前の
実に豊臣秀吉は、莫大な未練を抱えて逝った。ともすればその重量で、三途の川の渡し船も沈みかねないというほどに。
華やかな生涯を送ってきただけ、その辞世の悲痛さが、一層際立って印象されるのではなかろうか。
徳川家康は、まさにその逆。
およそ人間に想像し得る辛酸という辛酸を悉く舐め、忍耐に次ぐ忍耐を強いられ続けたこの老雄は、しかしその末期に及んで晴れやかだった。
討つべき敵はすべて討ち、子孫は末広がりに広がり続け、国内には波瀾の起る影もない。
仕事は、最早やり終えたのだ。当人の言葉を借りるなら、
――ざっと済みたり。
の域である。為すべきことを完遂しきった者にのみ赦される無上の満悦。朝焼けの空を仰ぐが如き、澄み切った心境で逝けたろう。
人として、男として、英雄として、為政者として、これほど理想的な死に様はない。
私が家康公を日本史上最大の偉人と尊敬してやまない所以の一つに、この辞世の影響が少なからずあるだろう。
――その徳川家康に。
関ヶ原前後で力添えあり、黒田長政、細川忠興、加藤清正、福島正則らと共に、彼の天下実現に一役買った浅野幸長の辞世にも、
なくてぞ果てんよしそれも夢
やはり「夢」の一文字が発見できる。
幸長の死期は早く訪れ、享年38歳に過ぎなかった。
その事実を踏まえてから眺めると、格別な滋味がにじみ出てくる詩だろう。
歴史に名高き大坂の陣が勃発したのは、幸長の死からおよそ一年後のことだった。
(Wikipediaより、大阪の陣)
ゆめに夢見る夢の世の中
三代目市川團藏、辞世の句。
三十一文字中、なんと六度も「夢」の単語を持ち出している。
歌舞伎役者らしく、鮮やかに
赤穂浪士四十七士が一人、間光延辞世の句。69歳の老齢ながら討ち入りの際には短槍を手に奮戦し、みごと敵一名を突き伏せている。
年寄りの冷や水と
またその槍の柄に、
恥ある世とは知るや知らずや
と記した短冊を付けていた逸話で聞こえが高い。
横井也有、辞世の句。
尾張藩の要職を歴任しながら、同時に俳人、国学者としても聞こえた男で、多芸多才の有能の士。
彼の詠んだ
の句は、三世紀を経た現代でもなお色褪せず、人口に膾炙され続けている。
おもへはかなき夢の浮橋
江戸中期の鍼医、谷崎永律辞世の句。
何かと多病であった室鳩巣の、いわば
享保十八年に谷崎が息を引き取ると、その翌年、まるで申し合わせたように鳩巣もまた死んでいる。
年齢を考えればまったく不思議はないのだが、まるで前者が後者の魂の緒を辛うじて繋ぎ止めていたような、そんな神秘的想像をついしたくなる。
戯曲作家、並木五瓶の辞世の句。
「回り舞台」を最初に歌舞伎に取り入れた、並木正三の弟子。
師匠の発明したこの仕掛けに手を加え、更に発展させたというが、詳しくはよく分からない。
以下、他に「夢」を含む辞世を箇条書きに書き並べると、
(永井言求)
夢なれや花は昨日けふは風
(由良正春)
などがある。
私も時に過去を顧み、自分の言行を想うとき、
――はて、あれは本当に俺であったか。
と訝しむことがたまにある。
その際、やはり浮かぶのだ。一切合切、なにもかも、夢中の沙汰であるかの如き感慨が――。
夢。夢か。まったく便利な、いい言葉だ。常套されるのも頷けよう。
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