金を払わず医者にかかれるということは、それ自体がもう既に、一つの快事であるらしい。
社会的に恵まれない人々――有り体に言えば貧困層に対しては代価を求めることなしに、無料で診て差し上げましょうとさても大気な表看板を掲げてのけたこの施設の周囲には、いつの頃からか貸衣装屋が何軒も出来て、そのいずれもが大いに繁昌したという。
(Wikipediaより、三井本館)
どの衣装屋も、「人気商品」はダントツで、むさくるしい襤褸着の類が占めていた。
見るだに不潔な布切れを態々纏い、俄作りの貧困者と化してまで行くべき場所はひとつしかない。
三井の慈善病院である。
タダで診察が受けたいのである。
貧困と呼べるほど窮迫しきっていない、さりとて財布の中身に余裕があるわけでもない、生殺しめいた境遇の庶民が
が、あからさまに物持ちのいい、かかりつけ医の一人や二人はもっていそうな、富裕層の住人までが時たま化けにやって来るのはどういうわけか。貸衣装屋の店主にしても、そういう手合いを迎えるごとに、不思議の感に打たれたという。
東京帝大医科大学とも連携するなど、慈善病院の運営に三井がとにかく本気であって、日本最高水準の医療を受けれる環境を整え上げたということも、むろん理由のひとつであろう。
が、それ以上に制度の裏をかくということ。狡猾さを発揮して不正を成就することで腰の奥から湧いてくる、得も言われぬ気持ちよさ。あの卑しい快感こそが、慈善病院の門前に大量の偽装貧民を生み出した最大要因ではあるまいか。
似たような噺は英国にもある。裁判所の傍を探せば、赤ン坊の貸し出し業者の一人や二人、間違いなくみつかると、物の本でいつか見た。
利用者が若い女性の場合、このサービスは凶悪なまでの効果を呈したことだろう。赤子を抱いて審理の場に立ち、儚げにふるまう淑女を前に、法官のいったい何人が、厳格さを貫き通せたことであろうか。
(ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ 「ゴシキヒワの聖母」)
赤子の外にもうひとつ、女と頗る相性のいいモノがある。
涙である。
瞳を濡らすこの繊細な液体も、場所によっては積極的に売買されたというのであるからいよいよ世間は妙だった。
ペルシャでは亭主に死に別れたばかりの未亡人を訪ねると、たなの上に大切そうに小びんが置かれているのが目につく。ペルシャでは未亡人は亭主に死別したら、毎日毎日涙を一滴もこぼさないようにためて、それが二本になると服喪をやめることになっているからだそうだ。しかし中には亭主が死んでも一向に涙が出ないものもいる。そういう時は涙もろい女を見つけて一びんいくらという値段で涙を買いとり、一日も早く喪をすます。
涙二びん! 亭主の値段としては文句のないところであろうか。(昭和三十四年、貝田勝美著『医学者の散歩道』20頁)
愛も善意もなにもかも、人間はことごとくを商品化する。
そのようにして社会は回る。
なんと素晴らしいことか。
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