薩摩隼人はおかしいと、闘争心の権化だと、命の捨て処を弁えすぎだと、近年屡々聞くところである。
勇猛、精悍、剛毅、壮烈――そんな月並みな表現をいくら陳列してみせたところでまるで空しい。
彼らの狂気はあまりに度を越し過ぎていて、言語さえもぶっちぎってしまったような印象だ。
薩人の薩人たる所以。
目蓋を閉じてもなお瞳を灼く名状し難い巨大な熱の塊は、文久三年七月の、薩英戦争の渦中にあっても当然の如く発揚されて、歴史に確かな焦げ目をつけた。
その一つを取り上げてみる。
世に云うところの「波間に浮かぶ大砲」だ。
薩英戦争。
生麦事件に端を発するこの
以下、彼の伝記からその部分を抜粋すると、
平八郎はこの戦争において、砲弾は円いものとばかり思ってゐたのが、英艦隊から発射したものは、尖頭長身の巨大なもので、その破壊力もまた到底わが円弾の及ぶところにあらざることを知り、今更らの如く、彼我の兵器が、いかに優劣の甚しいかを知って、且つ驚き、且つ慨嘆したのであった。
それからまた、実戦に参加した先輩の口から「いかに味方の気が逸っても、優秀な敵艦に対しては、いかんともすることはできなかった」と口惜しげに述懐するのを聞いて、衷心から悲憤の涙を絞った。(中略)戦ひの跡を顧みて沈思黙考の後、
「海から来る敵は、海で防がねばならぬ」といふ真理を、会得したのである。(昭和六年、小笠原長生著『聖将東郷平八郎伝』58~59頁)
(Wikipediaより、薩英戦争)
薩軍砲台の有効範囲せいぜい一キロがやっとに対して、英艦装備の砲たるや、三~四キロを
これでは相撲の取りようがない。射程の外から一方的に撃たれ続ける口惜しさは、平八郎のみならず兵児一般の精神に重大な化学変化を齎した。
だからこんなやつらが飛び出しもする。
笹の葉のような伝馬船に砲を乗っけて、遮二無二敵艦に漕ぎ寄せるという、特攻隊の原型めいた連中が。
子供の発想、当たらないなら当たるとこまで近寄っていって撃てばいい。
ある種の真理を含んでいようが、しかしそれを実行するのに必要な胆力は如何ほどか。
乗組員は、明らかに生還を期していない。鬼であろう。諸共に死ぬんだという執念が、皮膚を突き破って今にも露れんばかりであった。
狙われる英国人とて困惑したのではなかろうか。
ついに直撃を受けぬまま、「笹の葉」は敵艦を射程に入れた。
撃った。
外した。
更に近付き、再びずどんとぶっ放す。
これも的外れな方角に飛び、水煙を上げるのみ。
三発目を撃つ機会はなかった。
流石に捨て置けぬと判断したのか、よく照準した英艦による砲撃が、伝馬船を木っ端微塵に吹っ飛ばしたからである。
すべては終わった。
否、終わらなかった。
不思議なことが起きたのである。
海に投げ出された大砲が沈んでゆかず、そのまま波間にぷかりぷかりと浮いているのだ。
金属製ではまず有り得ない軽妙な動き。さもありなん、そりゃあ浮きもするだろう、なんてったってこの大砲は
松の砲身に竹の箍を嵌め込んで、どうにか撃てるように整えたモノ。なればこそ伝馬船の浮力でもどうにか堪えることが出来たのである。歴とした青銅砲では最初の一発でひっくり返るか、そもそもまともに出航できたか、のっけからして既に怪しい。
法螺を吹くのもいい加減にしろ、到底真面目に聞いていられぬ、眉に唾すべき噺だと、そう切って捨てたくなる気持ちのほどはよく分かる。が、「事実は小説より奇なり」であって、木製大砲というものは、確かに現実に存在していた。
天明六年(西暦1786年)の段階で、林小平が書いている。以下、彼の著書たる『海国兵談』より当該部分を抜粋すると、
鐵、唐銅等の大筒は、定式にして能く人の知る所なり。尤一たび制作して千年を有つものなれば、此器を重宝と為る事は、論に及ざるなり。然れども大器遅成の理にして、積年の制作にあらざれば数を得る事
詳細な製法の記述もあるが、長くなるので割愛しよう。
林小平の時代から薩英戦争の勃発まで、ざっと七十年弱の時を経ている。
木砲の知識が遠く九州の片隅にまで浸透してもおかしくはない。
――それにしても。
と、悩まざるを得なくなる。
こんなモノで戦争をするしかなかったのかと儚むべきか、
こうまでしてさえ人間は闘おうとするのかと慄くべきか。
心の置き場に、ひどく戸惑わされるのだ。
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