中根左太夫という武士がいた。
身分は
(なんということだ)
まるでモグラか何かように、日の目を見ない己の境遇。このまま立身する見込みもなしに、燭台の蝋が尽きるが如く死んでゆかねばならぬとすれば、はて、いったい自分は何のため、この世にまろびでて来たのであろうか。
(むなしすぎる。……)
無常を感じずにはいられない。
その寂寥が、一首の歌に凝固した。
男なりゃこそなかね左太夫
自身の名字の「中根」の音と、「泣くものか」という痩せ我慢とをカケた歌だ。
悪くない出来といっていい。武士の要訣を衝いている。侍と百姓とを区別する決定的な境界は、実にこの痩せ我慢にこそあるだろう。元土佐藩士の家に生まれた作家の大町桂月なども、幼い頃から
――夏暑くとも、暑しと云ふな、裸になるな。冬寒くとも、寒しと云ふな、火にあたるな。痛しとも痛がるな。恐ろしとも、恐るるな。
との教えのもとに厳しく躾けられている。その結果、
痩我慢だにあれば、胆力なくとも、胆力ある人と共に伍するを得べきなり。勇気なくとも勇気ある人と騁馳するを得べき也。人前にて臆病なる挙動をなさざる也。如何に困苦するも人に泣面を見せざる也。干戈の巷に出でても、余りひけを取らざる也。平生個人の交際、家庭団欒も円満になる也。社会に出でて事業をなす上にも便宜多き也。(中略)凡人をして、天才者の域に近づかしむるも、亦実に痩我慢也。(大正十五年発行『桂月全集 第十一巻』395頁)
痩我慢なる
煌めくような名文警句を展開するまで至ったものだ。
まあ、それは余談。
とまれかくまれ、中根左太夫の詠んだ狂歌は武士の心にぴたりと添うものであり、ふとした筋からそれを聞き知った重臣は、
――心意気、
ということで、彼を転役、昇進させてやったということである。
「言霊の幸ふ国」に相応しい逸話であるだろう。
三十一文字にまるわる綺譚は、全く以って百花斉放、浜の真砂の数にも及ぶ。
もう二・三ばかり摘出すると、たとえば柳亭種彦は、あるとき古道具屋で掘り出した茄子型の硯を愛用し、その入れ込みようはほとんどこれを舐めんばかりで、常に机上に置くばかりでなく、ついにはその蓋の表に、
兎に角へたははなれざりけり
以上の狂句を掘りつけて、一層悦に入ったとのこと。
作曲家にして演奏家、一弦琴を奏でさせては並ぶものなき真鍋豊平、大阪に住み自流の伝道に努めていたころ。思うところあって伏見町から瓦町へと住居を移した。
それから暫く、移転先を聞かれる度に、
歌と琴とをまなべ豊平
斯くの如き歌を記した名刺を差し出し、莞爾とするを常とした。
(Wikipediaより、琴の練習風景)
京都のとある理髪師が、軽々にハンコをついたばかりに友人の借金を背負い込んで、もはやどうにも首が回らず、夜逃げか死かの二択にまで追い詰められた。
で、結局夜逃げと相成ったのだが、その間際。彼は自宅の戸口の上に、べったり半紙を張り付けるのを忘れなかった。
そこに記されていた文面は、
身につくものは虱きんたま
この
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