穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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言霊の幸ふ国に相応しき ―歌にまつわる綺譚撰集―

 

 中根左太夫という武士がいた。


 身分はひくい。数十年前、末端部署の書役に任ぜられてからというもの、一度も移動の声がない。来る日も来る日も無味乾燥な記録・清書に明け暮れて、知らぬ間に歳をとってしまった。ふと気が付けば頭にも、だいぶ白いものが混じりつつある。


(なんということだ)


 まるでモグラか何かように、日の目を見ない己の境遇。このまま立身する見込みもなしに、燭台の蝋が尽きるが如く死んでゆかねばならぬとすれば、はて、いったい自分は何のため、この世にまろびでて来たのであろうか。


(むなしすぎる。……)


 無常を感じずにはいられない。


 その寂寥が、一首の歌に凝固した。

 

 

筆とりて頭かき役二十年
男なりゃこそなかね左太夫
 


 自身の名字の「中根」の音と、「泣くものか」という痩せ我慢とをカケた歌だ。

 

 

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 悪くない出来といっていい。武士の要訣を衝いている。侍と百姓とを区別する決定的な境界は、実にこの痩せ我慢にこそあるだろう。元土佐藩士の家に生まれた作家の大町桂月なども、幼い頃から

 


 ――夏暑くとも、暑しと云ふな、裸になるな。冬寒くとも、寒しと云ふな、火にあたるな。痛しとも痛がるな。恐ろしとも、恐るるな。

 


 との教えのもとに厳しく躾けられている。その結果、

 


 痩我慢だにあれば、胆力なくとも、胆力ある人と共に伍するを得べきなり。勇気なくとも勇気ある人と騁馳するを得べき也。人前にて臆病なる挙動をなさざる也。如何に困苦するも人に泣面を見せざる也。干戈の巷に出でても、余りひけを取らざる也。平生個人の交際、家庭団欒も円満になる也。社会に出でて事業をなす上にも便宜多き也。(中略)凡人をして、天才者の域に近づかしむるも、亦実に痩我慢也。(大正十五年発行『桂月全集 第十一巻』395頁)

 


 痩我慢なるかな、痩せ我慢なる哉――と。


 煌めくような名文警句を展開するまで至ったものだ。

 

 

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 まあ、それは余談。


 とまれかくまれ、中根左太夫の詠んだ狂歌は武士の心にぴたりと添うものであり、ふとした筋からそれを聞き知った重臣は、


 ――心意気、いじらし・・・・


 ということで、彼を転役、昇進させてやったということである。


「言霊の幸ふ国」に相応しい逸話であるだろう。


 三十一文字にまるわる綺譚は、全く以って百花斉放、浜の真砂の数にも及ぶ。


 もう二・三ばかり摘出すると、たとえば柳亭種彦は、あるとき古道具屋で掘り出した茄子型の硯を愛用し、その入れ込みようはほとんどこれを舐めんばかりで、常に机上に置くばかりでなく、ついにはその蓋の表に、

 

 

名人になれなれ茄子と思へども
兎に角へたははなれざりけり

 


 以上の狂句を掘りつけて、一層悦に入ったとのこと。

 

 

Ryutei Tanehiko

 (Wikipediaより、柳亭種彦

 


 作曲家にして演奏家、一弦琴を奏でさせては並ぶものなき真鍋豊平、大阪に住み自流の伝道に努めていたころ。思うところあって伏見町から瓦町へと住居を移した。


 それから暫く、移転先を聞かれる度に、

 

 

難波橋瓦町なる角屋敷
歌と琴とをまなべ豊平

 

 
 斯くの如き歌を記した名刺を差し出し、莞爾とするを常とした。

 

 

Koto lesson

 (Wikipediaより、琴の練習風景)

 


 京都のとある理髪師が、軽々にハンコをついたばかりに友人の借金を背負い込んで、もはやどうにも首が回らず、夜逃げか死かの二択にまで追い詰められた。


 で、結局夜逃げと相成ったのだが、その間際。彼は自宅の戸口の上に、べったり半紙を張り付けるのを忘れなかった。


 そこに記されていた文面は、

 

 

金もなく妻なく子なく義理もなし
身につくものは虱きんたま

 


 この戯言ぎげんには、さしもの債鬼も表情筋を緩ませずにはいられなかったそうである。

 

 

ダンガンロンパ霧切 1 (星海社 e-FICTIONS)

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