以下はほとんど信ずべからざるエピソードだが、発信者のフィリップ・アーマンド・ギブス卿はあくまでも、「真実」と主張して譲らない。
第一次世界大戦の真っ最中に、英国国王ジョージ5世がドーバー海峡をひょいと跨いで、フランス首脳部と心温まるご交流を営まれたのみならず、将官連の制止を振り切り、砲弾乱れ飛ぶ最前線にその身を曝したという話を、だ。
(Wikipediaより、ジョージ5世)
士気は目に見えて上向いた。
あたりまえのことである。
いと高き御方の視界の中で臆病なふるまいを演ずるようでは、それこそ末代までの恥、英国男子の名折れであろう。兵士は勇猛心を奮い起こした。
王もまた、権威の源泉たるに相応しい態度をお示しになられた。
爆風が頬をなぶるほどの至近弾があった際にも、ジョージ5世は泰然として、少しも恐怖の色合いを面上に差し上らせなかったという。
が、生憎と、
慣れない戦場の喧騒に、あるとき遂に精神の臨界を超えたらしい。恐慌を起こして棒立ちになった。
しかもそれが泥土の上で起きたのだから堪らない。いっぺんにバランスを失って、騎乗中のジョージ5世もろともに、
(あっ)
あってはならない事態を前に、お付きの者らは悉くその顔色を失った。無理もない。彼らの受けた衝撃たるや、太陽の落下を目の当たりにしたのと大差なかろう。もう駄目だ、何もかもがお終いだ、である。
(英国騎兵)
翌日、ジョージ5世は傷病兵用車輌に乗せられ後方へと送られた。
しかもその車輌というのが、何ら特別仕立てではない、既に幾度も彼我の間を往来している一般的なものだったから、兵士たちの誰一人としてその中に国王が乗っているとは気付かなかったそうである。
よく出来た話だ。
あまりに出来が良さ過ぎて、プロパガンダを疑わずにはいられなくなるほどである。
というより、常識的に考えればそうだろう。権力者は自分を危険に晒さないとか、そういう僻み根性を抜きにしても、どうにもジョージ5世の人間性にそぐわないのだ。
君臨すれども統治せずの模範的な体現者であり、即位二十五周年の演説で、
「私はごく平凡な一人の人間に過ぎない」
と発言した男が
が、しかし、フィリップ・ギブスは第一次世界大戦中たった五人のみ存在していた英国公認ジャーナリストのうち一人。
酸鼻を極めた西部戦線の実情と、さんざん検閲された欲求不満を、戦後『
(Wikipediaより、フィリップ・ギブス)
真実の暴露には、ひときわ執心していたとみて相違ない。
そんな男が保証している。戦後幾年経ようとも、ジョージ5世の前線視察にまつわるエピソードを、だ。
してみると、国王陛下の「平凡な人間」発言は単なる謙遜にあらずして、もっと別な、たとえば痛烈な自国誇りの意味合いを含んだものであったのではなかろうか。祖国存亡の危機が目睫の間に迫った場合、一般的な英国人なら誰しもが、自分程度の勇気を発揮して当たり前。我が身の危険を顧みず前線に馳せ向かうのは紳士として当然の嗜みであり、取り立てて騒ぐには及ばない、と――。
(バッキンガム宮殿)
第一次世界大戦中の列国軍隊。その
陸軍に所属し、最終的な階級は少将。日露戦争では参謀を務めたというから、単なる机上の空論家ではない。
1917年から1919年まで河野は欧州に出張し、戦場視察に熱心だった。
結果得られた評価録を引用し、今回の稿を閉じるとしよう。
戦前大陸軍として其名を世界に誇ったロシアの陸軍は、先づ戦争第二年目に戦意が挫け、後遂に崩壊した。仏伊両軍にも第四年目に軟風が頻りに荒んだ。即ち、仏軍には其春非常なる精神的危機があって、戦線では銃を棄てて軍隊を離るゝものが続出した、幸に当局の果断なる処置と米国の参戦によりて辛うじて此頽勢を挽回することが出来た。伊軍にも同様の危機があって、其年の秋カポレットの大敗を招いた、(中略)又連戦連勝の独軍でも西部戦線異状なし処か、最終年の夏には将校の不在の間、戦線に於て団体をなして投降することが初まり、又後方の森林村落には戦線からの逃亡兵がウヨウヨする程大異状であった。此間唯独り英軍のみが不撓不屈、極めて堅実味を維持し孜々として戦勝に向かって努力した。要するに英国は連合軍勝利獲得の中堅であった。(昭和六年『兵力量少なき英陸軍』より)
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