毒が残っているやも知れない、素人捌きのフグ鍋を、好んで囲んだ江戸っ子のように。
あるいは狭い室内で、無数の兎を撃ちまくり、点数を競った仏人のように。
男というのは度胸試しが好きでたまらぬいきものだ。
(長谷川哲也『ナポレオン ―覇道進撃―』1巻)
これもまた、その一例に数え入れていいかもしれない。
――関東大震災以前。アジア主義の理想に燃える血気盛んな青年諸君、所謂「大陸浪人」どもが、殊更贔屓にした宿が、京橋区の一角に存在していた。
格別眺めがいいのでも、舌を蕩かす料理が出るでも、美人女将が帳場に立って居るのでもない。彼らの興味をガッチリ掴んで離さぬ要素は、まるきり別の場所にある。
この旅館は、怪奇現象のメッカであった。
二階の、特定の部屋で休んだ者は、必ず恐怖体験を味わわされる。彼らは自分がいつ眠ったのか気付かない。この部屋で見る夢は決まって一つ、寝る前と寸分違わぬ室内で、布団に仰向けの体勢のまま、金縛りに遭っている己を発見するところから始まるからだ。
どんなに意志を籠めようと、この金縛りを解けた者は嘗て無い。現実の肉体は家鳴りするほど
そうこうする間に、視界に異変が映り込む。天井の板敷を透過して、なにか途轍もなく恐ろしいものが降りてくる。
この「恐ろしいもの」は、人によってまちまちだ。
宮崎滔天はいつも全身血塗れの女に布団の上から
清藤幸七郎のところには血みどろの牛の頭がやって来た。清藤の好物は牛肉である。あんまり多く喰い過ぎた所為で牛の祟りを受けたのだろうと、これまた同志たちがおちょくった。
尾崎行昌は頭を割られたしわくちゃの老婆に怨めし気に睨まれた。むろん見覚えなど塵ほどもない。誰にも因果関係が解けず、反応に困り、この尾崎行雄の末弟については自然と棚上げの形になった。
孫文が来日した際も、アジア主義者らは面白がって彼をこの部屋に泊めている。案の定、夜半になって七転八倒する音が旅館内に響き渡った。翌朝ふらつく足取りで部屋を出てきた彼を囲んで、夢の内容を訊ねると、孫文は苦っぽい微笑を口元に浮べ、
「Only bad dream」
ただこの三語を繰り返し、それ以上は頑として口を割ろうとしなかった。
「怪力乱神を語らず、でもあるまいに」
日本人はひどく不満に思ったという。
(Wikipediaより、中国同盟会。前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天)
以前殺人事件が起こったわけでも、刑場跡に建ったのでもない。天井裏を調べても、お札一枚見つからなかった。
およそ呪いが発生すべき下地なんぞは一切ないにも拘らず、何故かそういう現象が起こる。起こってしまう幽霊旅館。どこかSCPに通ずる理不尽さ。こういうタイプの怪談はけっこう好みだ。アジア主義者が贔屓にしたのも頷ける。
ついでながら、私は昨晩夢を見た。
草原を騎馬で疾走中、みすみす敵の罠に陥ち込み、捕縛され、記憶消去装置に座らせられる夢である。
その所為かどうか知らないが、目覚めて二分で夢の九割方を忘却していた。
なんとも残念なことである。
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