志村源太郎という男がいた。
山梨県南都留郡西桂村の産というから、神戸挙一の生まれ故郷たる東桂村とはごく近い。
ほとんど袖が触れ合うような隣村関係といってよく、志村が日本勧業銀行総裁に、神戸が東京電燈社長の椅子に就いて以降は、互いに意識し合うところが大きかったに違いない。
この両人は、年齢までもがほど近かった。
1862年生まれの神戸に対し、1867年生まれの志村。共に御一新以前の年号であり、甲斐絹の取り引きでさんざ儲けた家系の裔である点も、いよいよ似ている。
その財産が父の代にてきれいさっぱり雲散霧消したところまで神戸と志村は共通しており、ここまでくると瓜二つとしか言いようがない。天の作為を、ふと疑いたくなるほどだ。
(Wikipediaより、志村源太郎)
さて、そんな志村源太郎だが。
実を言うとこの男、小学生の時分に自殺未遂を起こしている。
原因は、父との確執だったらしい。
父の宇平は昔気質の男であって、新時代の気風というのがどうもいまひとつ理解できず、これを軽佻浮薄と見、息子がその色に染まってゆくのがなんとも耐え難く不気味であった。
不快さが募るあまり、とうとう彼は除染作業に手を出した。息子が学校から帰宅するなりその首根っこを掴まえて、文机の前に座らせ、彼自身が講師となって「昔ながらの教育」を施すことにしたのである。
教本は、むろん古式ゆかしき四書五経に他ならなかった。
(なんということだ)
この漢学教育ほど、少年期の志村にとって辛いものはなかったという。
(今更こんなものが何になる)
どうもこの人物は、儒教が伝える古聖賢の言ノ葉にまるで感動できない体質らしい。必然としてその説くところはつまらなく、しかしそのつまらない条文を暗記することを余儀なくされる境遇に、次第にフラストレーションが溜まっていった。
(――いっそのこと)
死のう、と意を決するまでそう時間はかからなかった。
(志村源太郎の生家)
大人と子供の心は違う。彼らはまったく、成熟した精神からは計り知れない突飛なことをやらかすものだ。
その収拾をつけてやるのも分別のある大人の役だが、それはまあいい。
ある晩のこと。父の寝息を密かに窺い、彼の意識がすっかり眠りの底に沈んでいると確信した源太郎は、
刃渡り一尺少々の短刀である。
見た目よりもずしりと思いその鉄塊を胸に抱えて、少年は夜の闇を行く。やがて居間へと到達すると、思い切ってもろ肌脱ぎの姿になった。
腰を下ろし、小さな腹を撫でまわし、鞘を払って露わになった切っ先で、そのあちこちを突っついてみる。死ぬにしても、苦しみは少ない方がいい。なるたけ痛くないところを探す心算であったのだ。
ところがどれほど探しても、痛みを伴わぬ部位はない。なんだか志村は
(やっぱり生きている方がいいなあ)
最初の意気込みは何処へやら、ぱちんと刃を鞘に納めて。
気付けば志村は、また息を殺して箪笥を開き、短刀を元あった場所にしまい直していたのであった。
(Wikipediaより、たんす)
以上の如き経験を、漫画家の泰斗・岡本一平も少壮時代に積んでいる。
一体おやぢは、僕を絵描きにする積りで居るが、僕は元来、絵なんかを軽蔑し切ってる。さればと云って、之に代るべき自信のある才能一つも、僕に見出せない。
思ひ悩んで、今は憂鬱に浸るのが唯一の慰めとなった。時々捨鉢になって、自らを汚す肉欲の奴隷となる。そして後で、いたく良心に身を責められる。神経衰弱になって死に度くなった。自殺を決心した。
遂にある夜、市ヶ谷八幡の丘へ上って、短刀を腹へ当てゝ見た。痛いや。命は惜しくないが、痛いのには困った。(『一平自画伝』)
父親との意見の違い、短刀による割腹自殺、痛みによって敢然意を翻す――。
両者の行動は鏡写しにしたように、同一軌跡を描いているといってよかろう。
もっとも岡本は正直な男で、己が心の深淵につき、最後にこのように付言するのを忘れなかった。
しかしこの行為の真の動機は、僕は決して、自殺それ自身を求めたので無い、自殺をするといふ、その情緒に憧憬を持ったのだ。(同上)
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