穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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田中正造伝・中編 ―政治をやってゐる間に―

 

 足尾銅山について探ってみると、その歴史は存外長い。古く慶長の昔から採掘が行われていたのが分かる。


 慶長と言えば、関ヶ原の戦いが起こった元号――江戸時代の草創期だ。


 その時代から銅を産した足尾の山も、しかし江戸中期ごろからめっきり産出量が先細り、幕末に至るとほとんど廃坑の観があったという。


 残されたのは、盛時を偲ばせる遺構ばかりだ。当時、この鉱山の坑道は八千八口と呼ばれていた。銅を探して山に穴を穿つこと、ほとんど蜂の巣のようであり、古人の執念深さというか、いっそ怨念に近いものを感じさせる名であろう。


 京都出身の商人で、元小野組の腕っこき、古河市兵衛が妄執渦巻くこの山を入手したのは明治十年のことである。

 

 

Ichibei Furukawa

 (Wikipediaより、古河市兵衛

 

 

 当初、同業者たちはこぞって古河を嘲笑わらったものだ。あんな絞りかすみたいなボロ山に、態々手を出す輩が居るとはな、と――。


 しかし古河は独自の嗅覚を持っていた。江戸三百年を通して滅多矢鱈に掘られた結果、落盤湧水の頻発し、熟練の鉱夫ですらが踏み込むのを躊躇する危険地帯と化していた当時の足尾銅山に、指揮官陣頭とばかりに率先して入り込み、どんどん仕事を進めたのである。


 果たして危険を冒した甲斐はあった。足尾銅山には未だ手つかずの大鉱脈がひそかに眠っていたのである。しかも西洋の近代鉱山技術を導入した結果、産出量は飛躍的と言うも控え目なほどハネ上がり、瞬く間に東アジア最大規模の銅の産地に駈け上がってみせたのだから、痛快、ここに極まれりだ。


 古河は、賭けに勝利した。


 彼の設立した古河財閥十五大財閥の一つに名を連ねるほど発展出来た土台には、実にこの足尾銅山の繁栄が寄与するところ大である。

 


 ここまでならば、誰もが羨む輝かしきサクセスストーリーで終われたろう。

 


 しかし、濁り水はゆっくりと、だが確実に足下を浸しつつあった。

 

 

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渡良瀬川

 


 足尾の山奥を水源として、群馬・栃木の県境を流れる渡良瀬川は、古来より富を齎す川として地域住民に愛されていた。

 


「一度渡良瀬川が出水して、田に水をかぶせたならば、向こう三年肥料は要らぬ」――。

 


 恰もナイル川の氾濫が、エジプトに肥沃な土壌を齎したように。


 渡良瀬川もまた天然の良き肥料の供給者として、長らく機能して来たのである。


 それがある時期から急におかしくなった。渡良瀬川の水を冠った田圃では、肥料が要らぬどころが稲が腐って一粒の米も穫れなくなった。


 稲どころか、畑作も、養蚕のための桑も、半分以上が枯死するという異常事態。それに併せて、渡良瀬川に棲まう魚も激減していた。


 渡良瀬川流域の、安蘇・足利・梁田三郡の明治十四年に於ける漁民の数は、およそ2800戸
 それがたった七年後の明治二十一年の調べでは、700戸にまで急落している。


 魚の大量死が、あまりに相次ぎ過ぎた所為だ。


 目も当てられない惨状であるといっていい。


 事ここに至り、住民たちも騒ぎ始めた。足尾銅山から流れる毒が、この一帯を枯らしているのではあるまいか――。

 

 

Ashio Copper Mine circa 1895

 (Wikipediaより、明治二十八年の足尾銅山

 


 明治二十四年、被害の特に甚だしい足利郡吾妻村では、鉱毒被害を訴える上申書を作成し、村長の名のもと、栃木県知事に提出している。


 日本最初の公害事件、足尾銅山鉱毒事件が、いよいよ顕在化した瞬間だった。


 田中正造鉱毒地帯を視察したのは、その直後だったとされている。

 


「政治をやってゐる間に、肝腎の人民が亡んでしまった」

 


 この有名な台詞を肺腑から絞り出したのは、これより十一年後の明治三十五年二月に於いてであるが、この時も田中はまったく同じ想いに打たれただろう。


 視察から帰還しての十二月、開かれた第二帝国議会の席上で、田中は斯く絶叫している。

 


「諸君、食べ物をたべる時に、毒を食べなければならんと云ふのは情けない話である。洪水が出ますと水と共に田畑へ鉱毒が入るが、高い田畑には入らない所もある。籾は鉱毒の水を被ったものは腐れ、鉱毒のない水を被ったものも腐れる。どちらもその籾の皮をとると黒い玄米が出来、これを百姓は小米と呼んでをる。この小米を白米にしようと思ふと、粉になってしまって白米にはならない。これを玄米のまま臼で挽いて粉にする。そこまでは同じであるが、毒水を被ったのと被らないのとでは、其処で別れる。毒水を被らない方の粉では、団子を拵へ焼餅を拵へることが出来るが、毒水を被った方のは粉に粘力がなくなって、団子にも焼餅にもならない。ならなければ捨てるより仕方がないではないかと云はれるかも知らんが、そこが悲しいかな、矢張り味噌汁や何かへ打ち込んで蕎麦掻きのやうにして食べる。之を食べるのに、諸君……毒と云ふことを知らずに食べる者が多いのであります」

 


 田中が鉱毒地帯を歩いて看取した被害状況の報告は、これを含めて五十四箇条の長きに及んだ。


 並大抵の労力ではない。


 寝食を削り寸暇を惜しんで仕上げたものであることが、否が応にも伝わってくる。


 ところが政府の対応は遅々として進まず、それどころか前述の足利郡吾妻村の住民達が纏めた鉱毒被害の記録集・足尾銅山鉱毒渡良瀬川沿岸事情』が出版されると、たちどころにこれを販売禁止にする始末。


 人民を守るどころか、明らかに古河市兵衛の鉱山経営を後押しするものであり、事実これを受けて古河は、足尾山中に新たに水力発電を起こし、事業の拡張、生産の拡大に努める姿勢をはっきり打ち出してゆくのである。

 

 

渋沢栄一が語る 無学の勇者 古河市兵衛
 

 

 

 


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