穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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井上馨と波佐見金山 ―明治四十四年の失態―

 

 昨日紹介した『修養全集 11 処世常識宝典』には、実のところ渋沢栄一翁も小稿を寄せてくれている。


叱言こごとの言ひ方」と題したその中で、翁は明治の元勲・井上馨を引き合いに出し、

 


 叱言をいふ際には、必ず他人の居らぬ処ですべきである。故井上馨侯は偉い人であったが、非常に口喧しい性質で、来客でもあった時に、取次に出た女中が何かヘマな真似でもすれば、ガミガミ叱責し、果ては何の罪もない客にまで怒を遷して無機嫌な様子をされたものであるが、斯ういふ事は客に対して礼を失する計りでなく、叱責される本人にとっても、反省よりも寧ろ反感を抱かしむる場合が少なくないのであるから、是非とも慎む様に心掛くべきである。(44頁)

 


 以上のように評価した。
 まず、反面教師扱いといって差し支えなかろう。
 日露戦争必要論を説きに行った杉山茂丸に対してそうしたように、この井上という人物は、己と政見を異にする相手や何か失態を犯した部下に対して、とにかく雷を落としまくる男であった。


 ついた渾名が「雷じじい」。なにやらドラえもん名脇役を彷彿とさせる響きだが、井上馨の頭部には別段禿げあがった様子もない。

 

 

Inoue Kaoru

Wikipediaより、井上馨) 

 


 ところがこの雷爺さん、井上馨が、お得意の雷を落とす気力さえ失うほどに手酷くやられた事件があった。


 明治四十四年第二次桂内閣時代に起こった波佐見金山事件がそれである。


 大蔵省の大御所として多大な影響力を保持していた井上馨はこの当時、日本が陥っている経済的窮境を鑑みて、これを打破するには内地に於ける金の所有額を増加せしめるより外にないとの結論に至った。
 そのためには、この列島の地下に眠れる金鉱石を掘り出すのが一番手っ取り早かろう。


 以上の経緯から、盛んに産金主義を力説するのが井上馨以下大蔵省の年来の方針に他ならなかった。結果煽てられた民衆が、金、金、金と眼の色を変えて各地の山や渓谷を跋渉してまわる光景が現出する。


 ――長崎県東彼ひがしそのぎ郡の波佐見村に、どうやら一大金鉱があるらしい。


 その報せが齎されたのは、そんな熱っぽい空気中でのことだった。

 

 

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 いや、波佐見金山の発見自体は明治二十九年と、ずいぶん前に済んでいる。翌三十年には開鉱され、以来祁答院けとういん重義なる持ち主のもと、多少の金を産出していた模様であった。


 ところが最近の調査でこの山が、実は遥かに大規模な金脈を底に湛えていると判明し、しかしながら採掘を本格稼働させるには、到底今までの経営体制では覚束なく、何処か銀行からの大規模融資がどうしても要ると、旱天に慈雨を請う百姓そのものの必死さで待ち望んでいるというではないか。

 


 井上にとっては、正しく鴨が葱を背負って来たに等しい話であった。

 


 が、流石にいきなり飛びつくほど思慮の足りない男ではない。井上はまず手元から、崎川幾太郎なる技師を派遣し、実地調査にあたらせた。するとどうであろう、間もなくして「正に有望なり」との報告が送られて来たではないか。


 事ここに至って、井上は敢然腰を上げる決断を下した。電光石火で「波佐見金山株式会社」なるものを設立すると、日本興業銀行――みずほ銀行の前身の一つに相当する――を動かしてこれに三百万円の資本金を投ぜしめ、あっという間に鉱山の直接経営権を握ったのである。

 

 

Industrial Bank of Japan Head Office in 1950s

Wikipediaより、1950年代の日本興業銀行本店)

 


 当時の三百万円といえば、およそ現在の三十億円に相当する。井上馨が如何に黄金を求めていたか、その熱烈さがこの数字からでも伝わるだろう。


 が、いざ本格的な採掘作業にかかってみると、意外や意外、出て来る金はなんとも微々たる量ではないか。


 波佐見金山は大正三年の閉山までに金1トン、銀2.4トンをそれぞれ産出したという。


 比較のために記しておくと、井上がかつて明治四年に悪辣な手管を弄して南部藩御用商人・村井茂平からむしり取ろうとした――尾去沢汚職事件――尾去沢鉱山の産出量は、金4.4トンに銀155トン。


 かの有名な佐渡金山83トン。ことに17世紀前半の最盛期には、年間400キロもの黄金がこの島の地下から湧き出たそうな。


 そして1985年に出鉱開始して以来、またたく間に日本最大の金鉱山の名誉をかっさらっていった菱刈金山の産出量は、今年三月の時点で実に242.2トン。文字通り桁違いといっていい。

 

 

Sadokinzan-doyunowareto 01

Wikipediaより、佐渡金山) 

 


 これでは「微々たる」という表現を使わざるを得ないであろう。少なくとも、井上の期待を大幅に下回ったのは間違いない。むろん、投下された三百万の回収など夢にも及ばず、日本興業銀行にはとんでもない大穴が開けられる始末に至った。


 この穴埋めに、興銀は以降十五年に亘って呻吟させられ続ける破目になる。


 尾去沢汚職事件を秋霜の如き厳しさで以って検断し、井上を台閣から追い払った江藤新平司法卿がこの情景を目撃したなら、果たして何と言うだろう。忸怩たる思いに歯を食いしばり、それみたことか、だから言わぬことではない、やはりあのとき徹底的に葬っておけばよかったのだと呻くだろうか。


 さしもの井上馨とて、晩年に入ってからのこの失敗はこたえたらしく、めっきり威勢を削がれてしまい、雷親父のあの威勢は何処へやら、影も薄まり、まるで死病にでも取り憑かれたようだったと当時の訪客が語っている。

 


 のち、波佐見金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠の地下工場として活用された。

 

 

 

 

 


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