今日も大気が濡れている。
こう、来る日も来る日も湿度が高いと段々やりきれなくなってくる。水っ気が脳味噌にまで浸潤し、頭蓋の中で白っぽくふやけてしまった心地がするのだ。
夜半、耳を聾する風の音で寝入りが妨げられたこともあり、どうにも集中力が低下している。
かてて加えて、指の汗疱まで悪化しだした。
長らく小康状態を保ってくれていたというのに、まったく何ということか。粟粒ほどの水泡が手足にずらりと現れるこの疾患のメカニズムは、現代医学を以ってしても未だハッキリ解明されていないのだという。
(Wikipediaより、粟)
原因がわからないということは、つまり有効な治療法の確立も不十分ということだ。
人によっては紫雲膏が効くといい、いやさキズパワーパッドを利用した湿潤療法こそ最適だとする声もある。が、不幸にして、私にはどちらも効かなかった。症状が一層悪化して、よりグロテスクな状態になっただけのことだった。
汗疱を発症してからというもの、私は明らかに
痒さと醜さが相俟ってひどく悩乱した時期などは、刃物で以って患部の肉をごっそりこそげ落そうかと本気で思案したほどだった。
ノイローゼであろう。
少なくともその入り口には立っていたような実感がある。
幸いにして木酢液を薄めたものが有効だと判明したからいいものの、治療には随分と時間がかかる。「三歩進んで二歩戻る」というのが至当な表現であるだろう。
そんなこんなで、ここ最近、私の気分はひたすら下落するばかりであった。
こういう場合、無理に陽気な文章を書こうとするのは禁物だ。どうせ二三行と続かない。筆が止まって、どうしてもそこから先に進めなくなる。現に昨日、そうなった。
それよりいっそ、暗いことばかり書くべきだ。落下速度に拍車をかけて、最底辺に身を叩きつけてやればこそ、立ち直りもまた早くなる。そう考えたとき、身近に好適な材料が眠っているのに気が付いた。以前、幕末に於いて乱舞した斬奸状の数々を読み漁ったことがあるのだ。
当時は内容のあんまりにもな激烈ぶりに面食らい、よくもこれだけの悪口雑言を並べられるものかなと辟易したが、今の気分には丁度いい。有名どころを二三点、紹介させてもらうとしよう。
まずは安政の大獄の当時に於いて、幕府の手先となりよく働いた目明し文吉の斬奸状から。
右の者先年より島田左近に随従し、種々姦謀の手伝を致し、剰へ戊午の年姦吏に心を合せ、諸忠臣の面々を苦痛致させ、非分の賞金を貪り、其の上島田所持致し候不正の金子を預り過分の利息を渙し、近来に至り候ても尚又種々姦計相巧み、時勢一新の妨に相成候に付此誅戮を加へ引捨に致し候、同人死後に至り右の金子借用の者は決して返済に及ばず候。且つ又以後にても文吉同様の所業相働候者之あるに於ては、高下に拘らず即時に誅伐すべき者也。
この捨札と共に文吉の死骸を三条河原に梟したのは、岡田以蔵含む土佐系浪士であったという。
(鴨川)
文吉以外にも安政の大獄で功のあった与力・同心の面々は、次々と殺されてゆく悲運に遭った。渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵あたり、みなそのクチだ。
西本願寺の門柱に、
当寺内大逆賊島田其の余の用人共並に小役人凡そ其の数十五人、来る二十五日迄追々誅戮し、坊主にも智明と申す者は賄賂を取り、奸悪の由不届至極、殊に松井中務の手先なる故、僧賊の手初めに不日梟首に及び申すべき者也。
と貼り紙した者もある。
名指しで殺害を予告された智明坊主こそ哀れであった。みるみるうちに蒼褪めて、命からがら生国の越前まで逃げ帰ってしまったそうな。
此者儀罪状今更申迄もこれ無く、第一虚喝を以て衆人を惑はし、其の上高貴の御方へ出入致し侫弁を以て薩長土の三藩を様々讒訴致し有志の間を離間し、姦謀を相巧み、非理の貨財を貪り、其の外所謂姦曲筆上に盡し難く、此儘差置候ては禍害限りなく生ずべきに付、如此梟首する者也。
上はその越前からほど近い、越後国出身の志士・本間精一郎が四条河原に梟された際の立札の文。彼の殺害にも、やはり岡田以蔵が関わっていたとされている。
文久三年一月二十九日には千種家の家士香川肇が殺されて、しかも腕を斬り取られ、一本は岩倉家に、もう一本は千種家に、
「補助の用に供せよ」
と添書して投げ込まれるというとんでもない事件が起きている。なお、香川の首は一橋慶喜の旅館に向けて送られて、
「攘夷血祭の祝ひに充てる」
と書き添えてあったというのだから、もはや絶句するしかないではないか。
下手人たちは、いったいどのような表情をして一連の作業を行ったのか。当時の京が日夜腥風吹きすさぶ、修羅の巷であったとするのはまったく妥当な評価であろう。
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