明治初頭、急激に押し寄せた文明開化の大波に人心がとても追随しきれず、結果数多くの狂態が――病院のベッドを実見した民衆が、これは人間を丸焼きにして「毛唐ども」に喰わせる装置に違いないと思い込み、積極的自衛策として先に病院に火を放つ、といったような狂態が――演ぜられたことは、以前述べた通りである。
これについて、もう少し蛇足を加えてみたい。
明治六年、政府は思うところあって女性の裁縫留学の
開明的かつ穏当に見えるこの政策が、しかし駿州大宮――今でいう静岡県富士郡あたり――に到達したその時には、どういうわけだかひどく捻れて歪んだモノになっていた。
なんとこのあたりの人々は、お上は縁付かない若い娘を毛唐の巣に放り込み、連中の子種を植え付けさせて手っ取り早く「文明開化」を済ますつもりだととんでもない解釈を下し、そうはさせじと憤り、布令にあった「十三歳から二十五歳までの未婚女性」を片っ端からつかまえて、相手を選ばずどんどん結婚させていったのである。
そのため十三歳で四十過ぎの男の嫁に行かされるという、前時代的な悲劇までもが現出したからやりきれない。知が力なら、無知はときに罪であろう。
(白無垢)
明治十年に起きた軽気球騒動もなかなか凄い。
石井研堂の『明治事物起原』によれば、我が国の気球の歴史は明治八年開成学校作製学教場に於いて理学教師市川盛三が、赤ゴムの小球に水素ガスを満たして発揚したのが始まりという。
翌九年、彼の生徒たちがこれを自主製作して小児用玩具という名目のもと売りはじめ、瞬く間に大好評を博すに至る。
更に年を重ねて明治十年。陸軍省の依頼を受けて、海軍技術科麻生武平、同機関士副馬場新八が中心となり、初の外国人の力を借りない、何から何まで日本人の手で組み上げた軽気球の発揚実験が動き出す。
そのプロジェクトが実を結んだのは同年五月二十三日、築地海軍練兵場に於いてであった。
完成した気球は長さ九間幅五間、奉書紬一二〇反を繋ぎ合わせてゴムにて塗り上げた代物で、船底からは幾本もの大綱が垂れていた。
浮遊させて後は、これを引っ張り地面に下ろす算段である。
蒸気ポンプによってガスが気球に送り込まれ、馬場新八が独り乗り込み、いよいよ気球は大地を離れた。
労苦の甲斐あり、気球は期待通りの働きを示す。蒼穹に向かって駆け上がり、四十間を超えたあたりで馬場氏が合図の赤旗を振り、一旦地に戻される。
ここまでならば大成功といっていい。
が、次いで性能の限界に挑もうとでも考えたのか、無人のまま飛ばしてみたのが不幸であった。
先程獲得した高度の五倍、およそ二百間あたりにまで達したところでふとしたことから気球は制御を喪失し、風に流され、県境を越え、千葉県堀江村に落ちたのである。
村人たちの驚愕ときたら言語を絶した。
如何な古老とて、こんなモノは見たことも聞いたこともない。
風の神が誤って袋を落としたとか、イヤこれは
(Wikipediaより、酒のつまみとして供されるラッキョウ)
騒擾は、やがて狂気に変わる。住民たちは棒を手に取り、空からやって来た正体不明のこの怪物を、寄ってたかって殴りつけることにした。
するとどうであろう、「怪物」はまるで痛みを感じているかのように再びフワリと浮き上がり、何処かへ逃げ去ろうとするではないか。
その後を、人々はなおも執拗に追い、更なる打撃を加えると、ついに気球は盛大に破け、中のガスを噴出させる。
その臭気の甚だしさに、「妖怪が悪気を吐き出しやがった」と村人はいよいよ仰天し、恐慌を来して右に左に逃げ回り、灰神楽の立つような大騒ぎを演じたという。
思わず顔を覆いたくなる有り様だが、文明の過渡期とは、得てしてこういうものであろう。
この水準の国民を牽引して三十年弱、たった三十年弱で、よくまあ大ロシア帝国と渡り合えるだけの国力を養えたものである。
先人の苦労は計り知れない。
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