メキシコシティを「巨大な長野」と形容した日本人が嘗て居た。
彼の名前は野田良治。
錚々たる経歴の持ち主である。
明治八年、丹波
最初はメキシコ合衆国から。明治三十一年以降、外務書記生として三ヵ年の経験を積み、
次いでペルーはリマ市に於いて、名誉領事の任につくことおよそ十年、
更に三ヶ月程度の短期といえど、チリ公使館にて二等通訳官を務め上げ、
いよいよブラジル大使館に移ってからは、最も長く、二十五年を此処で過ごして、昭和十年、ちょうど齢六十を目処に退官している。
「外務省きっての南米通」と称されるのも納得だろう。
で、そんな野田良治の炯眼に、メキシコシティはどう映ったか。
この地の何に信州長野の面影を見たのか、話をそこに引き戻す。
…長野市は、二個の山脈の間に形成された高原の盆地に位し、鉄道に依って海岸に達するには日本海方面の直江津まで七十五粁、太平洋側の東京まで二百二十粁である。それと同じ様にメヒコ市は、東西二条に分れたシエラマドレ山脈の中間に挟まれた高原の盆地を占め、海抜七千四百尺で長野市よりも遥かに高く、鉄道に依る海岸までの距離は、東方ベラクルスまで四百二十五粁、太平洋岸のマンサニージョ港まで六百十三粁で、標高、距離ともにスケールが長野市よりは大きい。(昭和十七年発行『らてん・あめりか叢談』4頁)
なるほど確かにメキシコシティの標高は2240mを記録しており、日本最高の県庁所在地、長野県長野市の371mを以ってしても到底及ばぬ高みに在る。
おまけに野田が赴任した明治三十一年の当時に於いて、マンサニージョ方面に通ずる鉄道は未だ完成していなかったから、「海」との縁遠さの点にかけても長野を大きく引き離していた。
こういう土地では、しぜん魚類価格の高騰という現象を見る。
ましてや冷凍保存技術なぞ未熟も未熟、実用化にこぎつけるには越えねばならぬ障碍が幾重にもわたって残されている時勢柄。魚類の味を知らぬまま、ついに生涯を終えようとするメキシコ人を、野田良治は幾度となく目の当たりにした。
以下はそういうメキシコシティ
日本料理には魚類が多く用ひられることを予が話した時に、下宿の主婦や娘たちから「猫に魚を喰べさせると気狂ひになる」といふことを聞かされた。これはメヒコ市の猫どもは、飼主自身が魚類を喰べないのであるから、何時まで経っても残物の骨にもありつけないのが常である。だから偶々何かの間違ひで魚にありつき、一度その味を覚えたが最後、ただ一心に魚を喰はんことを思ひ続け、他の食物は何を与へても摂らうとはせず、遂に狂気して死んで了ふといふのである。
それほどに魚類は当時のメキシコ市では珍稀な物資であり、また富裕階級のみの消費する贅沢品であった。だから吾々が魚類を喰べる機会は、宴会またはホテルでの会食の場合に限られてゐた。(5頁)
所変われば品変わる。
そこをいくと長野県など「海なし県」でありながら、清流には恵まれて、イワナにヤマメ、ニジマスと、豊富な川魚に舌鼓を打てたのだから、よほど幸福とするに足る。
(一斗缶によるイワナの串焼き)
野田良治は昭和四十三年まで生き、九十三歳の長寿を保った。
齢八十を過ぎてなお、『日葡辞典』編纂のため日本―ブラジル間の長距離を二度三度と行き来するなど、その精力と情熱は衰え知らずといっていい。
この人が麻薬カルテルに占拠され、「修羅の国」と成り果てた今のメキシコを見たならば、どんな感想を漏らすだろうか。
聞きたいような、聞きたくないような。世の移り変わりは、ときに無惨だ。
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