織田信長が比叡山を焼き討ちした際、突き殺されて炎の中に投げ込まれた死体の中に、数百の女子供が混じっていたのは有名な話だ。
多くの聖域が
ところが現実の有り様ときたら
宗教というものの本質が、これほど赤裸に暴露された例も珍しかろう。そういう意味で、信長という男はやはり画期的な人物だった。
教義を守れと口やかましく説教し、現世利益を放棄させ、浄土に迎えられる幸福を熱弁する輩ほど、裏では都合よく教義を枉げて俗界を享楽しているものである。そのことを、遠く後世に及ぶほどの強烈さで証明してのけたのだから。
作家の塩見七生氏が、この比叡山焼き討ちや石山本願寺攻め、伊勢長島に代表される一向宗との対決等々、そうした一連の「狂信の徒の皆殺し」をして「織田信長が日本人に与えた最大の贈物」と評したのも納得がいく。
しかしながら第六天魔王の業火を以ってしても、僧侶の性根を変えることは不可能だったようであり。
性懲りもなく女郎買いをたのしむ坊主頭を揶揄する歌が、江戸期を通して数多詠まれた。
この句はその一例である。
江戸時代の医者というのは不思議な職で、
武士でもないのに苗字帯刀が許されて、
僧でもないのに剃髪するのが
奇妙としかいいようのない位置付けがなされた存在だった。
この特徴に目をつけたのが生臭坊主。彼らが女遊びを営むときには決まって医者に変装してからしたもので、こういう手合いは「化け医者」と呼ばれるのが常だった。
狼とは袈裟を着たケダモノ、すなわち破戒僧を意味しており、舟宿に酌婦がついたのは勿論である。
遊里に通う者の休憩所、または客と遊女との連絡場所としても機能したのが「中宿」である。
この「中宿」の経営者もそこは呼吸を心得たもので、変装のための諸道具が常備されていたりした。
そういえば大正・昭和の慈善病院の近所でも、ちょっと探せば貸衣装屋の一件や二件は容易に見つかったものであり、そこでは何故か薄汚れたボロの衣装を多めに扱っていたそうである。
時代は変われど、人の心は変わらない。
さて、数珠と法衣を手放して一本差しのそれらしい風体をつくろいイザ廓内に乗り込んでも、
「このところ胸がつかえて、お医者サンならちょっと脈を測っておくんなし」
などと攻め寄せられるともう駄目である。
本職とは手の握る場所も、握り加減もまた違う。
ある意味同時代の誰よりも人間通な遊女たちが、その違いを見落とすことは決して無かった。
もっともそれを問題にするような風潮はあまりなく、「化け医者」を題材とした句の数多さを鑑みるに、「僧とはそういういきものなのだ」という認識を、世間一般がごくさりげなく共有して受け容れていたような雰囲気さえある。
これもまた、泰平の世の効能だろうか。
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