穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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戦場のピアニストたち ―続・ドイツ兵士の書簡撰集―

 

 第26予備猟兵大隊所属、オットー・クレーエルが「戦場のピアニスト」になったのは、1914年11月1日未明、制圧した村落の一邸宅に於いてであった。


 その屋敷は戦闘の余波をもろに受け、大広間には砲弾が飛び込んだ痕があり、


 高価な夜具も、
 磨き立てられた鏡も、
 金銀細工の燭台も、
 古今の智識を詰め込んだ本棚さえも、


 等しく砕かれ、かつての栄華は見る影もなく、めちゃくちゃに荒らされきっていたという。


 だからこそ、オットー青年はある種の霊威を感じずにはいられなかった。――未曾有の暴力に蹂躙されたその中で、ただ一つグランドピアノだけが立派な刺繍の覆布おいふさえもそのままに、在りし日の姿を留めきっていたことに。


(天の配剤か)


 その感は、鍵盤蓋を開けるに及んでいよいよ強まる。


 あらわれた銘はブリュートナー、ドイツが誇るピアノメーカーの老舗であった。

 

 

Blüthner8G

 (Wikipediaより、ブリュートナーのグランドピアノ)

 


 スタンウェイ&サンズ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインと併せて、「世界四大ピアノ・ブランド」と評する声とて存在している。逸品であることは論を待たない。オットーは、血が酒に変わったほどのくるめき・・・・を覚えた。

 


 私は長いこと音楽に飢ゑてゐたものですから、これを弾いた時には全く戦争の災禍を忘却してしまひました。もはや嘔吐や恐怖をもたらす戦場の諸相も、一箇所だけ見つめてゐる死人の眼も、撃ち砕かれてぼろぼろになった人間や獣類の死体も意識の外に去って了ひ、また銃や砲を撃つ音、乃至砲弾や銃弾の飛んで来る音も聞えなくなって了って、――先づ最初には故郷の諸相が意識にのぼって来、次ぎには何ともいへない至幸な満足感が私の心を満たしたのでした。(『最後の手紙』118~119頁)

 


 このときオットーが演奏したのは「われらが神は堅き砦」ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲の、全八曲から成る教会カンタータであったという。

 


 戦友たちは故郷の家や家族の者のことをしのび乍ら夢みるやうな眼差しをして、私の周囲を取り囲んでゐました。負傷した者等も傾聴してゐました。そして多くの者が暫くの間苦痛を忘れたやうに見えました。全く神聖な一と刻でした。実にこの数分間は恐ろしい戦争をも忘れ果てたのでした。(119頁)

 


 おそらくはこの演奏が、シュトルベルク生れのこの青年の最後の演奏になったろう。


 これよりおよそ一ヶ月弱、11月27日のフランダースに於ける戦闘で。


 阿鼻と叫喚の入り混じる、無慈悲な戦場音楽に支配された大地の上で、彼の肉体は千々に砕かれ、ただの物体に成り果てたからだ。享年、20歳に過ぎなかった。

 

 

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(シュトルベルクの街)

 


 オットー・クレーエル以外にも、「戦場のピアニスト」と化したドイツ軍人はちらほら目につく。


 それだけドイツの文化水準が高かったということだろう。ロルフ・ブラウンなる18歳の青年は、1915年4月11日、マルスラ・トゥールの一角で、以下の如き光景を目撃している。

 


 私が教会へはいって行った時には、ちゃうど一人の将校がほんとに上手にオルガンを弾いてゐました。しかし――その場の光景を見た時――私の心臓は数秒間鼓動することをやめて了ひました。といふのは更に十二人の死体が、大方鉄十字章を胸に飾ってそこに列べられてゐたのです。皆四十三四歳の後備第三十六連隊の人々で、戸外にはそれらの人々のために墓が掘られてゐました。どれもこれもむごたらしい負傷です。そしてそれらの年取った人々は、口から血を垂らし、苦痛に歪められた顔をして、硝子のやうになった眼で人をぢっと見つめてゐました。教会祭壇に立ててある二本の蝋燭によって照され、それに黄蝋のやうな色の死面と荘重なオルガンの音、私は一生忘れることができないでせう。(172頁)

 

 

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 想像するだに物凄い光景である。


 まして現に目撃したブラウンに於いては、ついに生涯、この有り様が頭から離れなかったに違いない。


 なんとなれば彼の戦死はこれより僅か二週間後、4月26日に訪れる運命さだめであるからだ。これだけ強烈な体験、二週間では色褪せる暇もないだろう。


 見送った者が、次の日には見送られる側になる。当時のヨーロッパでは明らかに、地獄の釜が開かれていた。

 

 

戦場のピアニスト(字幕版)

戦場のピアニスト(字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

 

 


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