かと思いきやまったく同時期、世間がなんと言おうとも、意固地なまでの一徹ぶりで新奇を拒絶し、旧習の中に根を張って不動の構えを示し続ける手合いもいるから面白い。
断固散髪を肯んぜず、ちょんまげを守り続けた漢たち。――
その筆頭は、なんといっても「鉱山王」古河市兵衛こそだろう。
国会議員の芳野世経、文人画家の服部波山、「最後の剣客」榊原鍵吉、そして馬術の草刈庄五郎――ちょんまげ堅守を宗旨としたのは、傑士の中にも意外と多い。
並み居る群雄をそれでも抑えて、古河が君臨する所以は何か。財閥創始者という世間的地位もさることながら、やはり以下の演説が与って大いに力ある。
海の向こうの取引相手と商談中の一幕だ。この西洋人がふとした興味本位から古河のあたまを指し示し、何時になったらそれを改めるおつもりなんですと揶揄いまじりに訊いたのが、結果として大いなる伝説を生み出した。
古河はぎょろりと目を剥いて、一気呵成にまくし立てたそうである。
「仕事が出来さへすれば頭などはどうでもよい、どうも世間には外貌ばかり文明国の真似をして仕事は
(足尾銅山精錬工場、稼働中のベッセマー転炉)
途轍もない負けじ魂、かてて加えて美しさを覚えるほどに理路整然たる話の筋道。
更に言うなら行き過ぎた西洋崇拝に対する反撥も、社会の底に厳然と蟠っていたのであろう。
そこに投下された古河の大見得。最高の起爆剤として機能するのは火を見るよりも明らかで、古河市兵衛は漢なりの歓声が津々浦々から寄せられた。
本人も悪い気はしなかったに違いない。
「一日の出入差引が一万円を超えない限り、わしは断じてこの髪は切らぬ。もし切る
と、周囲に向かって語る姿が頻繁に目撃されている。
なお、この放言は嘘でなかった。
後にしっかり現実のものとなっている。
その情景は天下の大新聞のスペースを少なからず占領し、巨細なく喧伝されたものだった。一個人が髪を切る、たったそれだけの沙汰事が全国レベルの特ダネになり、人々もそれを違和感なく受け入れる。どうであろう、如何にも「明治」の香りがすまいか。
(「明治五六年の東京」)
以下、その記事を引いておく。明治三十三年九月末、『報知新聞』掲載である。
明治の御代に旧日本の俤をとどめし古河銅山王はナンノカンノと言葉を左右に托して、イッカナそのちょんまげを切らず井上伯らの切なる勧告さへ拒絶し、伯が酒興に乗じて、鋏を持ちて追ひかくるをかいくぐり、逃げ惑ひしも幾度か知れざりしが遂には夫れも防ぎ兼ねて結局十年間の猶予を乞ひしが、斯くては齢傾きし氏も伯も冥府に至りて実行するの外なければ近来伯も躍起になって断髪励行をせまりしさい、たまたまこの程従五位に叙せられたれば、近日御礼参内の節洋服にちょん髷にても不都合なりしとていよいと流石の市兵衛翁も我を折りて、愈よ来る二十八日柳橋(東京)亀清楼で懇意の人々を招き井上伯、渋沢男が介添人となりて盛んなる元服式を行ふよし、…
古河が髪を落とすには、それだけの威儀が必要だったということだろう。
まさに一つの時代の終焉。永きに亘り敵の攻勢を防ぎ続けた巨大要塞、その陥落にも匹敵し得る、崇高にして愁然たる眺めであった。
(Wikipediaより、「最後の剣客」榊原鍵吉)
なお、執刀役に選ばれたのは日本橋本石町一丁目にて理髪店を経営する、庄司某なる男。
彼に支払われた報酬は、五十円というおよそ法外な額だった。
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