生きてゐるうち善き人となれ
政治の道を歩みたいと志をぶちまけた息子に対し、父は山本玄峰の狂歌を与え、「やるのならばとことんやり抜け」と激励した。
息子の感激ただならず、三日間の斎戒の後、その実行を神祇に誓うことまでしている。
時は明治十四年。
息子の名は田中正造。
日本最初の公害事件、足尾銅山鉱毒事件の解決に半生を捧げて尽力し、ついには天皇への直訴という前代未聞の非常手段にさえ打って出た、「民衆運動の父」と呼ばれる人物である。
先の気候変動サミットでグレタ・トゥーンベリが絶叫した、所謂「怒りのスピーチ」で良くも悪くも環境問題への関心が高まっている。
そんな今だからこそ、「原点」を見つめ直してみるべきだ。日本に於ける最初の環境保護活動家――田中正造から学べることは、きっと多いに違いない。
家格は名主と高かれど、懐事情はさして芳しくもありゃしない、有り体に言って中流規模の家に生れた正造が、「政治」という人間世界で一・二を競える金食い虫の業界に飛び込んで行けた理由について本人は、
「西南戦争以後、土地の売買で奇利を博し、当時としては大金である三千円余を儲けたから」
自伝の中で、およそこのように述べている。
巡査の初任給が四円か五円程度だった時代の話だ。
三千円も積み上げたなら、なるほど一財産と言えたろう。ものすごく大雑把に現代貨幣価値に換算すると、だいたい六千万円に相当するこの金の山を前にして、田中正造は考えた。
普通の脳力を有する者ならば、一方に営利事業に従事しながら、一方に政治に奔走することも出来ようが、予のやうな偏癖の者には出来ない。如かず一身一家の利益を擲って、専心政治改良に没頭することにしよう。
そこで冒頭の狂歌に還るわけである。
このとき、田中正造三十九歳。
お世辞にも若いとは言い難い。肉体的には、そろそろ老いの兆候が濃くなってくる頃だろう。
ところが彼の精神だけは、十四歳の少年にも劣らぬほどに赤々と、情熱の焔を噴き上げていた。
自由民権運動の高潮に乗じる格好で、まず板垣退助をトップに据えた自由党に入党した田中であったが、ほどなくしてここを離脱し、次いで大隈重信が党首を務める改進党に参加している。
仲介したのは、改進党の初期メンバーの一人である島田三郎。
田中の墓石に刻まれた、
という文章は、この島田の筆に依っている。
まず、盟友と言っていい、そんな島田が田中と大隈を引き合わせたのは、改進党設立からそう間もない明治十五年のある日のこと。島田がしたためた紹介状が、この二人を結び付けた。
その紹介状で島田は田中の経歴に触れ、彼こそ栃木県下に於ける最も実行力ある闘士であると太鼓判を押しており、末尾に至って、
性少しく頑、短慮の失あり候へども、直情勉強は多く其の比なき者に御座候へば、何卒これらの長所短所御認の上、御接見下され、何かと御教授下されたく候
と評価している。
短いが、これほど田中正造の人柄を精確に撃ち抜いた文というのもないであろう。彼はまったく、この通りの男であった。なにしろ、
「東京へ行くと馬鹿になる、三日居れば三日居ただけ馬鹿になる」
と放言して憚らなかった男だ。
鹿鳴館に代表される、官吏の行き過ぎた宴会主義を批判しての口癖らしいが、しかしそれにしても他に言い方というものがあるだろうに、どうしても田中はこのような、「抜き身」の言葉を選んでしまう。その結果、座が白けようがお構いなしだ。何度注意されようが、絶対に無遠慮さを改めない。
(Wikipediaより、鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵)
これを「硬骨」と呼ぶならば、よほどの硬さであったろう。大隈重信もそのことを、これから厭というほど思い知らされる破目になる。
といって、両者の仲が険悪だったわけではない。
言いたいことを遠慮会釈なしにズケズケ言う、田中の不羈奔放ぶりに些かてこずらされる向きはあったものの、そうした特性は大隈自身多分に保有し、武器としているものである。
謂わば同類、同じ穴の狢であって、相通ずるものもあり、大隈はいい親分ぶりを発揮した。
田中もそんな大隈への敬慕を強め、彼が玄洋社の爆弾テロで右足を吹っ飛ばされた際には、
君ぞ真のまことますら夫
上記のような狂歌を作り、その偉勲を讃えている。
両者の仲が破断するのは、実に明治三十年のこと。
既に世上の一大問題と化していた足尾銅山鉱毒事件をめぐっての、大隈重信の対策が――このとき、大隈は外務大臣と農商務大臣を兼任――あまりに生温いことに激怒したのが原因だった。
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