日本人はとにかく祖国を恋しがる。その点にかけては世界屈指やもしれぬ。
遠く倭寇の時代からそうだ。彼らは大陸や南洋の沿岸部を脅かし、ときに市街を占領することがあったとしても、その状態を長く保てず、ある日忽然と姿をくらましてしまったと云う。
現地軍の逆襲に遭い、ほうほうの体で逃げ出したのではない。軍事的優位を確立していて、街から甘い汁を吸い続けられる構造をちゃんと組み上げておきながら、それでも彼らはいなくなるのだ。
何処へ行ったかというと、祖国である。
つまるところ、彼らは単に帰りたくなったから帰ったのだ。せっかくの利権を投げ棄ててまで、およそ尋常の沙汰ではない。
これはもう魂を縛られていると言ってよく、日中戦争に従軍した河原魁一郎なる軍医がその手記に、
日本人は、日本の国土から離れてゆくことが最大の犠牲であったのである。(昭和十五年『火線の軍医』102頁)
と書き付けたのは、慧眼の至りといっていい。
(『火線の軍医』より)
井上円了もまた、日本人のこの習性を正確に把握している一人であった。
円了は、北海道でそれを見た。
北海道にては諸国より寄留者多く、且つ以前は永住を目的とするものなく、金さへたまれば直ぐ内地へ帰るつもりなれば、箪笥長持を所持せる者少く、婚礼には柳行李と風呂敷包を携帯すれば足ることになって居った、故に女児にして箪笥長持の何たることを解せざるものが多い、曾て小樽の女子小学校生徒七百名に対し、箪笥長持は如何なるものかとの問題を出したるに答案の出来たるものは僅かに二名であったとの奇談がある(『日本周遊奇談』135~136頁)
こうした日本人の性質を誰より腹立たしく思っていたのが「大英帝国分割論」を草した茅原華山に他ならず、「みみっちい島国根性」と呼んで憎悪して、大日本帝国の雄飛を妨げる最大規模の悪弊だとして痛罵した。
移民として他国へ行く以上、その国の国民になりきれ、骨を埋める覚悟を決めろ、出戻りなんざ以ての外だ――と、講演のたびに声を嗄らして叫んでいたようである。
ところが『日本周遊奇談』には、更に茅原の血圧を上げるであろう記述がある。
北海道では人が死んでも墓場を設けぬのが多い、必ず屍骸を火葬にして白骨を寺にあづけて置く、其故に各寺に骨堂を設けてある、是れは何時内地へ帰るかも知れぬから、帰る時に骨まで持って行く為である(同上、204頁)
骨を埋める、どころではない。
骨になっても、或いはせめて骨だけでも故郷の土に還りたいというのが当時の日本人の正直な心情の吐露だった。
北海道ですら
ましてや万里の波濤を越えた先、北米大陸に移り住んだ日本人に於いてをや。
彼らの祖国に対して向ける執着は、更に輪をかけて凄まじい。
まず、アメリカの銀行に一切預金をしなかった。
伊藤痴遊によれば、大正十五年の時点でアメリカに移り住んだ日本人は十万人を突破しており、彼らが一年間に稼ぐ金額はざっと一億ドル以上。
そのうち四千万ドルが毎年日本へ送られて、これだけでもアメリカ人の感情を刺激するには十分なのに、更に残った六千万ドルもほとんど現地に還元されない。
彼ら日本移民はこの金を、正金と住友の二銀行のうちどちらかに対してのみ預金して、決して白人の銀行に預け入れようとはしなかった。
正金と住友にいくら預け入れたところで利子はつかない。よって白人銀行側はこの点から攻め上る戦略を立て、自分たちなら相当割のいい利子をつけよう、場合によっては預金以上の融通も効かせて進ぜようと説きに説いたが、首を縦に振るものは皆無であった。
加えて彼らは、街へ買い物に出て来ても、決して白人の店からは物を買わない。
すべて日本人が経営する店舗から買ってゆく。
例え日本人の商店が、同じ品物を、白人の店舗よりずいぶん高値で売っていようとも、である。
このことは伊藤痴遊に実体験があって、
或都会に於て、私は絵はがきを、数百枚買った事がある。どちらで買ふても、絵はがきは同じ事であるから、一枚二銭五厘で、日本人の店から買った。
然るに、其翌日になって、私は、白人の町へ行って、それと同じ絵はがきを買ふと、一枚二銭であったから、さらに前日の店に行って、其事を話して、昨日のは間違ひであらう、といふたら。
「安く売る店があったら、そこで買ったらよからう」といって、すまして居たので、私も、少し癪にさわったから、
「日本人が、日本人の店で、物を買ふのであるから、少しは懇切に扱ったらどうだ。白人の方では、一枚五厘も安く売って居るではないか、五厘の金は大した事でもないが、感じがよくない。外の品物と違って、絵はがきのやうなものが、売価の違ふのは面白くないではないか」といってやったが、矢張りすまして居て、取り合はなかったから、私は、白人の店へ行って、尚ほ必要な数丈けを買って、いよいよ計算させると、さらに安くなって居るから
「これは計算が違ふだらう」といって注意すると
「おまへは、沢山買うから安くする」といはれて、私は、実に良い心地をして、その店を出た。
皆が皆、日本の商店が、その通りといふては善くないけれど、概してジャップタウンの商店には、斯ういふ風がある。
それでも、日本人は日本人同志で、日用品の売買は、行はれて居る。(大正十五年『痴遊随筆』589~590頁)
これで日本に好意を持つアメリカ人がいたら奇蹟だ。
彼らは現地社会に溶け込もうとしなかった。何故なら彼らは本質的に「移民」ではなく「出稼ぎ」であり、まとまった金を稼いだらさっさと祖国へ引き上げようと決めており、そのときを一日千秋の思いでずっと待ち続けていたのだから。
溶け込む必要を、端から感じていなかったのだ。
だから「二十年もアメリカに居て、英語の充分に出来ぬものもあり、英文の書けぬものが多くある(同上、599頁)」なんて現象が発生する。
当然、排斥されざるを得ない。
もしこれで排斥運動を起さない民族が居るとすれば、そいつは腰抜けの謗りを免れぬだろう。
本来この種の軋轢は、領事館をはじめとした外務省の手によって解消されるべき問題であるが、戦前日本の外務省の劣悪ぶりときたらちょっと言葉で表現し難い。
領事館の役人を案山子と入れ替えたところで誰も気付きはしないだろうと言われるほどに無為無能の徒輩揃いで、「給料泥棒」以外に彼らを形容する言葉が見当たらない有様だった。
私見だが、日本を対米戦争に至らしめた原因を追求する際、どうも軍部ばかりが槍玉に挙げられる傾向があるが、外務省の責任とてそれに負けず劣らず重いように思われる。
再び伊藤痴遊の言葉を借りると、
領事の指導が、甚だ不十分であった、ともいへる。また外務省の注意が、頗る上っ滑りがしてゐたともいへる。いづれにした所で、移民は、純良の人達であるから、よく導ひてやったら、今の悲境に陥る事もなく、排日の気運も、はやく喰止めることは出来たであらうに、返す返すも惜い事をした。(同上、602頁)
排日移民法は防げたのだと、このように痛恨事として述べている。
それからおよそ一世紀。
今度は日本が移民受け入れの可否をめぐって上を下への大騒ぎを演ずるとは、時代も変われば変わるものだ。
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