幸い、体調は持ち直した。私の健康は保たれている。
葛根湯が効いたのか、それとも最初から騒ぐほどのことでもなく、つまりは早とちりに過ぎなんだのか。いずれにせよ寝込まずに済んだのは良いことだ。
いやはやまったく、すんでのところで虎口を逃れた気分である。
まず真っ先に正岡子規、次いで尾崎紅葉、斎藤緑雨。パッと頭に浮かぶのは、後は
こころみに幾つか抜き出してみよう。
(筆者註・血を)
疲労も極限まで行くと、逆に爽快になってくるのと似たような現象なのだろうか?
生憎と、如何に病弱な私でも、未だ血を吐いた経験はないから分からない。一度鼻血がどういうわけか口腔の方へ流れ込み、結果として口から血をぶち撒けたのが精々だ。が、周囲の連中にはそんなことなど分からないから悲鳴を上げて大騒ぎする。その様子が、子供心ながらに面白かった。
今にして思うと、なんて厭な小僧であろう。よくあれで友人をなくさなかったものだ。
一度血を咯いたものは血を咯く夢を時々見る。(中略)胃を病むものは胃の存在を知り、肺を病むものは肺の存在を知る。かうして一度咯血したものは死ぬ迄咯血の夢に襲はるるであらう。(同上、5頁)
幸福な無智には戻れない。トラウマは忘れられないからこそトラウマである。
病中癪に障るものの一に検温器がある。検温器そのものが癪に障るのでなくて検温器の示す度数が癪に障るのである。よく考へて見れば検温器は正直に体温を示してくれるのであるから少しも罪はないわけであるが、それでも水銀線が三十七度以上まで昇ると、検温器を叩き割ってやりたいやうな気が起きてくる。(中略)たとひ体温が三十七度以上あるといふことを意識しても、検温器で正確な度を示されることにはどうしても堪へられなかったのである。丁度人間は百年以内に死なねばならぬと意識しても、何十何歳で死ぬといふことが若し決定的に知れたなら、非常に不快に思ふであらうと同じ心理状態と見るべきものであらう。(同上、38頁)
非常に納得のいく論である。実際私も幼い時分、病気をしたとき枕元に置かれる体温計が無性におそろしくてならなかった。親に体温を測ってみろと言われただけで血圧が上がる思いがした。
と、苦しまぎれに下手な標語めいたものを作って嘯き、なんとか検温を免れようとしたものである。
検温器なるものは健康な人がその健康を誇るために必要なもので、病気の人には禁物だといふやうな矛盾した結論さへしてみたくなる。(同上、37頁)
忘れもしない小学六年生の夜、39.8℃の表示を初めて叩き出したあの晩、私は風邪の症状よりも数字そのものが持つ衝撃によって卒倒しかけた。
検温器の威力、知るべしである。
以来十余年を経たが、未だにこれを超える発熱は経験していない。してたまるかという気分である。この記録が更新されようものならば、ほとんど命の危機ではないか。
神経が過敏になると、平素楽しく聞いた声や音までが自分を呪ふやうに思はれて厭な気持を喚び起こしてくる。(中略)もっと眠りたいと思ふのを、遮り起す、朝の軒端の雀の啼き音、
笑ってはいけない。人間の精神は斯くも容易く、肉体的条件に左右されてしまうものなのだ。私自身、胃潰瘍が悪化した際、周囲に対して無用に攻撃的になってしまった経験から不木の気持ちはよくわかる。
此頃は左の肺の中でブツブツブツブツといふ音が絶えず聞える。これは『怫々々々』と不平を鳴らして居るのであらうか。あるいは『仏々々々』と念仏を唱へて居るのであらうか。あるいは『物々々々』と唯物説でも主張して居るのであらうか。(正岡子規著『墨汁一滴』、四月七日)
だからこそ、子規が達していた境地のただならなさが浮き彫りになる。
結核菌に脊椎まで犯され、手の施しようがなくなり、身体に開いた穴から膿を垂れ流す地獄の苦痛に苛まれながら、どうしてこんな文章が書けたのか。
自らの病状を何でもないことのように、あくまで明朗に茶化してみせる。この透明性には総毛だつほどの凄味を感じる。生死というものをまったく離れ、命に対して達観しきったればこその透明さだ。
一生かけても、私はこの境地に到達できまい。人間としての種が違うようにすら思われる。
ああ、それにしても何という美しさよ。晩年の子規は、生き様そのものが詩であった。
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