昭和九年発刊の随筆集、『縦と横』を読んでいる。
著者の名前は西川義方。
箱の表の、「医学博士」の四文字に惹かれた。
同じく医師の著した『老医の繰言』が殊更に面白かった影響というのもあるだろう。
(『老医の繰言』を題材にした記事二つ)
序文からしてなかなか威力が高かった。出版に至る経緯を簡潔に述べたあと、その結びとして、
昭和九年甲戌霜月十八日
と記されているのである。
前述した『老医の繰言』の著者である渡辺房吉氏も、やはり愛国心の極めて旺盛な方だった。
渡辺老医の胸奥に皇室崇敬の焔が燈ったのは関東大震災に於ける大正皇后の被災民慰問が
では、今回のこの西川氏は――? 期待を籠めてページを捲った。
幸運にも、答えはそう間を置かずして齎された。何を隠そうこの西川義方なる人物、大正天皇の侍医という肩書を、その経歴に有する男だったのである。
ああ、それならばむべなるかな。火の玉のような愛国心の一つや二つ、宿ったところでなんの不思議もないだろう。私は深く納得した。
冒頭で記した通り、本書が刊行されたのは昭和九年。
言うまでもなく大正帝が崩御なされた後であり、西方氏自身当時の記憶を、三十一文字を差し挟みつつ回顧している。
その中から、幾首か秀逸な句を抜粋しよう。
いやさん術のあらばと求めし
陛下の脳病がいよいよ重篤化の傾向を示しつつあった大正の末ごろ。
西川博士は皇后宮の内命を拝して、治療法の研究のため遠く西洋に赴いていた。
ウィーンに、ブダペストに、ベルリンに、ボローニャに、あるいはパリに――遍歴すること十三ヶ国、叩いた名医の門は四百近くというのだから、彼の必死さがうかがえる。文字通り、それは片っ端からであったのだ。
スカンジナビアでは遥か奥地に敢えて分け入り、過酷な環境に晒されているその地に於いて、古くから伝わる怪しげな「自然療法」なるものにさえ一縷の望みを託して学び取ろうとしたという。血眼している形相が目に浮かぶようではないか。
だが、そこまでしてなお、むなしかった。博士の研究が実を結ぶより先に、「患者」の命数が尽きようとした。
胸うちくだく
それを電報で知った博士は、たちどころに帰国を決意。
航空網なぞ影も形も見当たらぬ当時のことだ。彼はシベリア鉄道により、ユーラシア大陸を横断することでヨーロッパ世界から大日本帝国に戻ろうとした。
わが大君を守らひたまへ
これはその、列車の車内で詠んだ歌。
逸る心を抑えかね、博士が下関港に到着したのは大正十五(1926)年十二月五日のこと。東上中、箱根の山を横目に見たが、
かかれる雲の色もをぐらし
心の中の暗雲を反映した印象しか抱けていない。
「をぐらし」とは漢字に直すと「小暗し」で、うす暗い・ほの暗いを意味する古語である。
神に祈りて
大正帝の崩御の日はこれから実に二十日後のこと。西川博士が転げ込むようにして葉山御用邸に伺候したときにはもう、脈はよほど弱まっていた。
二十四日午後九時、危篤。「御脈細数にして、正確に算し奉り難し」。
そして、明くる二十五日。
あまりに大き歎なりけり
天足らし国足らしまさん
わが大君は
天の原むらさき匂ふ
今日は憂の色ふかうして
西川博士があらん限りの忠を捧げたすめらみことは、宝算四十七にして生涯を閉じた。
今しゆきますおほみひつぎは
その御霊柩が宮城へ運ばれゆく様を、博士は確と見届けている。
博士はその後、「海軍の神様」元帥東郷平八郎をも患者にもった。
「昭和二年から約八年間、故東郷元帥を診察申上げて居った(148頁)」と書いているから、その最期に立ち会った可能性は十分にある(東郷元帥が世を去ったのは、昭和九年五月三十日)。
目の前で二度も巨星が墜つるとは、思えば数奇な運命を背負ったものだ、西川義方という人も――。
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