先日の記事の補遺として、この稿を書く。
類は友を呼ぶと言うべきか、大正天皇の侍医・西川義方がドイツ滞在中に友誼を結んだ医師というのも、また愛国者に他ならなかった。
彼の名はドクトル・ブレーメル。
あるとき西川博士が食事に招かれ、訪れたブレーメル邸にて様々な饗応を受けた後、土産としてマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの写真を手渡された際の、両者のやりとりほど爽快なものは他にない。
第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録を有し、「レッド・バロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれ畏れられ、その戦死の報せが日本の新聞にさえ掲載された帝政ドイツの若き俊英。
エース・オブ・エースを撮影したこの写真に、西川博士は
「精神と、生命を吹き込んで下さい(『縦と横』65頁)」
と頼んだのである。
ドクトル・ブレーメルはこれを快諾。迷いのない手つきでペンを走らせ、書いたところの内容は――。
先づ我国民あって、次に多くの国民がある。
先づ我故郷あって、次に世界がある。
予等の誇は、「世の中の最美は祖国の為にその生命を捧ぐる事なり」てふ事を死によって吾人に立証した同胞の存せることである。
(同上、65~66頁)
軍人でもなんでもない、一介の医師がこの文章を書いたことは確かに注目に値する。
あの屈辱的なヴェルサイユ条約締結により、尻の毛どころか体中の肉という肉をこそぎ取られてそれでもなお、一般の国民にこれだけのことを言う元気がある。こうした所謂不屈さは、古来より日本民族が天晴れ見事と扇子を広げて称賛してきたところのものだ。西川博士が
矢車草よりも、薔薇よりも、秀でて匂ふこの美しい心情!(同上、66頁)
と激賞したことに、何らの不思議性もない。
私自身の眼で見ても、心の底から同意したくなる下りばかりだ。まず、祖国ありき。自国を等閑に付してのグローバリズムなど、所詮は安易なユートピア思想の亜種に過ぎまい。畢竟、徒花以外のなにものをも咲かすことはないだろう。
西川博士はこのドクトル・ブレーメル以外にも、ドイツの愛国者達と誼を通づること繁く、たとえば欧州大戦時に西部戦線で働いた兵士と語り明かして意気投合し、
「万一日独戦でも起こった時には、君と僕とは第一番に精神的に刺し違え、君は君の愛するドイツのため、小生は小生の愛する日本の為に、熱情を捧げようではないか」
と固く誓い合い、「まことに気持のよい会話を結ん」でいる。因みにこの軍人からは、ビスマルクが描かれた絵葉書を貰った。
あるいはこれを骨太と呼ぶか。
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